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第六章 第20話
タクシーが停まり、乗り込む直前にこっそり聞いてみる。
「運転手さんの耳が気になるような頼みごとですか?」
「いや、それは大丈夫だ」
「では車の中でお聞きします」
二人して後部座席に乗り込む。行き先を告げてからおもむろに彼の方に顔を向けた。
「で、さっきの三つの件というのは?」
「一つ目は、祐樹の指導医 は黒木准教授だったな。それを私に変更させて欲しい」
教授クラスが指導医をすることなど聞いたことがない。光栄ではあるが、医局の雑音が酷くなりそうだ。
「それは私としては、教授の直接の指導を受けることが出来るので願ったり叶ったりですが医局がガタつきませんか?」
長い睫毛を伏せた彼は言った、自嘲交じりに。
「もう既にガタついている。星川君の件がはっきりしたら少しは新秩序が生まれる。祐樹の手術の腕前は、是非私が直接指導したい。そして来年からは正式に私の補佐をして欲しい。一人前の外科医として…」
予想外だにしなかった提案に、フト懸念が生まれる。
「有り難い申し出ですが・・・『贔屓の引き倒し』になる可能性すらありますよ。教授は、手術でたまたま助けた私のことを買いかぶっているだけかと…」
彼の顔がより一層真剣みを帯びる。
「そんなことはない。多くの外科医を見てきた阿部師長も祐樹のことを褒めていた。あの人は滅多に人を褒めないので有名な人だ」
「怒鳴られてばかりでしたけど…」
「あの人に怒鳴られない新米医師は居ない。ただ、祐樹は気付かなかったか?自分が緊急度の高い患者ばかり割り振られていたことを…あれは信頼の証だ」
そう指摘されて、そういえばそうだったな…と今更ながら気付く。
「分かりました。精一杯努めます」
その言葉に彼はほんのりと微笑した。
「その代わり厳しいぞ」
「それは分かっています」
彼は多分他人にも厳しいが、それ以上に自分に厳しいのではないかと思う、厳しいという言葉では表現出来ないほどにストイックなのかもしれない、患者さんの命を救うためには。
「二つ目は、長岡先生に私が体調不良であることを言わないで欲しい。どうやら、医局では、情報の島流し状態らしくて祐樹や阿部師長が喋らなければ長岡先生には伝わらない。彼女は内科医だ。私の体調不良を察知出来なかった…となると、自信喪失するだろうから…。
体調不良、私はひた隠しにしてきたので彼女のせいではないのだが、彼女はもともと自分の存在意義は『内科医』しかないと思っているフシがある。その彼女の自信の源を断ち切りたくない」
教授の言い分は良く分かった。客観的に見て彼女は美人だと思うし、服装のセンスも良い。だが、外科医の中に1人だけ居る内科医ということで時々オドオドしていることがあったので。
「分かりました。お約束します」
祐樹が暇つぶしに読んだ雑誌の中に「自分のライバルにならない人間には優しく出来る」という一節を思い出した。香川教授は内科医としての長岡先生は買っているが、それ以上でもそれ以下でもないことは理解している積りだ。
万が一、香川教授の容態がこれ以上悪化したならその時は躊躇なく相談する積りだが。今朝から彼を見ている限りかなり回復していると判断出来る。
「三つ目だが」
そこで、奇妙な間が開いた。先ほどまでは彼が普通に話す速度だったが「三つ目」という言葉はちょっとした早口だ。祐樹の視線に斬り込むような眼差しを向ける。
「迷惑だと思うが体調が元に戻るまで祐樹の部屋で眠ってもいいだろうか。もちろん迷惑なら止める。自分の部屋で眠るよりも祐樹の部屋の方が良い。薬も打ってもらえるし」
普段の二倍くらいの早口だ。話し終えた瞬間、視線は逸らされる。頬はうっすらと紅い。
「いいですよ。私のあんな部屋で良ければ。カンフルやシリンジなどはまだありますし。それに夜、教授が倒れているのではないかと心配する手間が省けます」
大きな吐息と共に、揺るぎない視線がまた合わさった。どうやら返事をする間、息を殺していたらしい。
「有り難う。病院に行って阿部師長の診立てを聞いてから何日お世話になるか相談しよう」
無邪気に微笑む教授は年上で、しかもポスト的には雲の上の人という印象はまるでなかった。というよりも、祐樹よりも年下のように思える。社会人経験は祐樹よりもずっとあるハズなのに、恋愛(だろう、多分。教授は何も言ってくれていないが)経験は皆無ではないだろうが、そんなに積んでないのだな…と思わせる。または過去の恋愛は駆け引きナシの直球勝負の人なのだろうか?とも思ったが。
「あ、ここで停めて下さい」
救急救命室に一番近い救急車の停車位置に車を停めて貰う。ドアを開けるために出て来た運転手さんに、使用済みの注射器などが入った大振りの紙袋を持って貰い、教授がちゃんと歩けるかどうか確認した。大丈夫そうだったので、救急救命室のスタッフ用の扉を開ける。
珍しいことに、この部屋は閑散としていた。まぁ、救急救命は夜間が一番忙しい。救急車がいつ来るかは分からないが、今はひとときのまどろみの中にいるらしい。
目敏く阿部師長が祐樹達の姿を見て寄って来る。彼女の部屋に手招きしてくれた。
「おはよう。お加減はいかが?」
「昨日よりはかなりマシになりました。過労性貧血ではないかと思うのですが、検査お願い出来ますか?」
教授が頼むと、やれやれ…という顔になる。
「ココは命に関わる人のための部屋で、学校の保険室ではないんだけれど…他ならぬ香川教授のために一肌も二肌も脱ぎましょう。血液検査するわね。ただ、赤字部門だからなぁ…」
これ見よがしに溜め息をつく。教授は頭を下げて言った。
「保険で診察してもらえば名前からして事務局にバレてしまうので、国民健康保険も入っていない人間として治療費は全額一括で払いますよ」
「そう?それは助かるわ。何せ、救急救命や産科は赤字で苦しんでいるから…」
「ささやかながら協力します。経済原理を病院に当てはめるのには無理があることは重々承知しています」
「何だ、元気そうじゃない?でも、折角の申し出なんで思いつく検査全部してしまおうかしら?」
阿部師長はあながち冗談ではない顔をした。
「全て、師長にお任せしますよ」
教授は真面目な顔だった。
「ちょっと、過労関係の検査、極秘で頼む」
近くに居た看護師にオーダーする。そのナースが教授を連れて行くと、祐樹は昨日から不思議だったことをまず聞いた。
「何故、星川看護師の本籍地などが分かったのですか?」
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