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第六章 第19話
「まだ眩暈はありますか?」
時々ふらつく歩調を案じて聞いてみた。
「いや、大丈夫だろう…昨日よりは大分良くなった。あんなに熟睡出来たのは久しぶりだから…」
少し眩しげに祐樹を見詰める教授に微笑み返した。
「それは良かったです。数分歩きますが大丈夫ですか?」
そう言って声を潜める。
「荷物があるので、抱き留められませんから…もし、気分が悪くなったら我慢する前に言って下さい…ね」
「私の気分が悪くなったら、祐樹はどうするつもりなんだ?」
素朴な質問に、きっぱりと答える。
「そんなこと決まっています。荷物を放り出して教授の身体を抱いてタクシーを停めて、病院に直行ですよ。もちろん医療廃棄物は車に乗せますが…廃棄物処理はキチンとしないとマズイですから…。それ以外はどうでもいいです。教授の容態が一番重要です」
「祐樹に抱えられて病院に行く…か…。他の場所ならともかくそれだけは避けたい事態だ…な」
複雑な顔をして小さな声で彼は言った。
祐樹のマンションの小路を抜けると大通りに出る。そこにファミレスがある。
「ここで朝食を摂りましょう」
返事も聞かず、店に入る。当直に当たらず運良く家に帰れた翌朝はいつも利用しているファミレスだった。早朝シフトのウエイトレスとも顔見知りだった。
「いらっしゃいませ。随分久しぶりですね」
そう言ってマニュアル通りとは到底思えない満面の笑顔で迎えてくれたウエイトレス。・・・確かD大学に在籍している学生アルバイトだと本人から聞いたことがある。彼女は、営業用の笑顔で祐樹の横に立っていた教授を見た。次の瞬間、営業用ではない心からの笑顔になる。教授の顔を感嘆の眼差しで見詰めている。どうやら視線が外せない様子だ。
彼の容姿は確かに女性にもウケが良いだろうな…と心の中で苦笑する。
――けれども、彼は誰にも渡したくない――
「席に案内して欲しいんですが…」
さすがは京都一、いや、文系では関西で一二を争うの名門私立に通っているだけのことはある。頭の切り替えは早い。
「失礼しました。こちらです。いつもの喫煙コーナーでしたよね?」
「いや、今日は禁煙で…」
「お願いします」という前に香川教授の言葉が遮る。
「いつものように喫煙コーナーで」
「かしこまりました。どうぞこちらです」
「有り難う」
香川教授が微笑みながらそう言うと、女子大生は頬を紅潮させる。すこぶる面白くない。
テーブル席に向かい合って座る。
「喫煙席なんかで良いんですか?煙で気分、悪くなりませんか?」
「疲労性貧血だから、受動喫煙で気分は悪くはならない。それに祐樹にはとても迷惑を掛けた…多分、煙草も我慢していたのだろう?そちらの方が忸怩たる思いがする」
自分を思いやってくれている彼の言動がたまらなく愛しい。それほど欲していたわけでもなかったが、ポケットの中から煙草を取り出し火を点けた。煙が彼の方に行かないように気をつけていると、さっきのウエイトレスが注文を取りに来た。メニューをざっと見て、即座にオーダーする。
「俺はモーニングセットA、こちらはステーキ御膳で」
オーダーを聞いた教授が薄紅色の唇で反論する。
「朝からそんなには食べられない。祐樹こそ、ステーキ御膳を食べてくれ」
「貧血の人間は、栄養のあるものを食べるのは常識です。食べ切れなかったら、私が責任を持って片付けますから、とにかくステーキ食べて下さいね」
言葉の最後の方はドスを効かせて命令口調で言う、眼差しも真剣に。
諦めたような溜め息をついて、彼は頷く。
運ばれて来た料理をお互い食べる。彼の食欲はなさそうだったが、食べるのは早い。この職業に従事している人間は、看護師や技師などのコメディカルも含め食事に要する時間は早い。ステーキを八割ほど食べて、教授はナイフとフォークを置いた。
「もう無理だ」
モーニングセットの方が量は当然少ないので祐樹は食べ終わり、お代わり自由のコーヒーを飲んでいた。
「半分ほどでギブアップかと予想していたのですが、良く食べられましたね。残りは任せておいて下さい」
そう言って食べかけのステーキ御膳を平らげた。
食事を終えて、勘定の時になると教授は祐樹に払わそうとせず全額払ってくれた。
「それは悪いですよ・・・」
心の底から言うと、彼は艶やかな笑顔で言った。
「昨日から迷惑の掛けっぱなしの祐樹に払わせるわけにはいかない。悪いと思ってくれているなら、私の我が儘を3つほど聞いて欲しい」
我が儘といっても彼のはとんでもない要求ではないだろう。彼の性格が大分把握出来つつある。
「分かりました。ご馳走様です」
店を出て、病院に通勤するためにタクシーに手を挙げた。
教授総回診の前に救急救命室にも行かなければならないので早く病院に着く必要がある。
一つは教授の治療。もう一つはナゼ阿部師長が星川看護士の個人情報を知っていたのかを聞きたかった。
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