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第六章 第18話
注射は経口薬と比べて胃が荒れる心配がないのが有り難い。このところの手術室での心労で細い身体がさらに細くなったと思う。これ以上神経性胃炎とか胃潰瘍にまでなってしまったら…と思うと気が気ではない。
「注射しますから、腕まくりをして下さい」
その指示に従って彼はしなやかな筋肉のついた、細く白い腕を露出させる。
静脈注射は患者さんの静脈の太さと、静脈を支える筋肉の発達具合で難易度が異なる――と医学書に書いてあったな…と学生の時の知識を総動員させてみた。一応習ったが注射は看護師の仕事という不文律があるので、正直彼女達には敵わない。
香川教授の静脈の太さは普通だが、手術をしているせいで――あれは見ているよりも腕力が必要だ――筋肉はしっかりと付いていて、注射に慣れていない祐樹でも注射針を一回で刺すことが出来た。
祐樹がシリンジの針を刺している時、教授は静謐な瞳で祐樹の瞳を見守っていた。
「オーダーされたカンフルは全部打ちました」
「有り難う。注射上手いな、本当に…」
「いえ、慣れていないのでドキドキしてました」
「ふーん?」
そう言って無邪気な様子で祐樹の何も着ていない胸の心臓の辺りに右の掌を当てた。
いつも思うのだが、彼のしなやかで長い指はとても冷たい。血流が悪いせいか?とも思う。
「ホントだ…鼓動が早いな」
心臓手術の世界的権威の教授というよりも、子供の感想のような言葉だった。
「しかし、心臓が動いているのは…とても安心する」
長い睫毛を伏せてしんみりと独白する。その件は昨夜の彼の様子からして痛いほど分かっていたが。彼は薬のせいで覚えていないだろう。黙って頷いた。
使い切ったシリンジやアンプルの容器などは、普通の家庭用ゴミとしては出せない。しかもシリンジの針は尖っているし、アンプルはガラスだ。これらは「医療廃棄物」として処分しないと法律に違反する。大学病院の専門の廃棄物処理場に入れるしかない。持って行く必要は有るが危険物だった。なので何が包む物をと部屋の中を探した。
いつ食べたのか全く記憶にない冷凍のウドンのアルミ容器が二つキッチンスペースに転がっているのに気付いた。それに教授に使った医療廃棄物全てを入れてガムテープで巻いた。
――これをこのまま職場に持って行き、処分してしまおう――
昨日の12時間以上の睡眠が効いたのか、今日の彼は幾分動作こそ遅いが元気そうだ。
仕事に入る前に阿部師長の根城に寄って、本格的な検査をしてもらおうと思った。あそこには、救急救命室という特別な場所なので正規の検査室とは規模は大幅に違うが、性能は同じくらいの検査器具が揃っているし、薬品も豊富だ。何より、他の科とは違って秘密は守られる。
「朝食を食べてから、出勤…と言いたいのですが、冷蔵庫には食べ物が有りません。どこかで朝ご飯を食べてから出勤前に阿部師長のところにご挨拶に行って、そして我が医局に出勤しましょう」
「食欲がないのだが…」
その言葉を聞き、どう言えば一番彼が食事を摂ってくれるかを瞬時に判断した。ワザと恨みがましい目をして呟く。
「教授は、『早く治す』と仰っていましたよね。そしてご自分の病名を『疲労性貧血』だとも。なら、栄養のある物を食べるのが一番です。食べなければ治りませんし。私との約束なんてそんなものなんです…よね」
話をしているうちに彼の顔が変わっていき最後には真剣な顔をした。
「分かった。食べる、食べるから」
「では、出勤着に着替えを…と言っても、昨日はワイシャツなどを洗濯する余裕がなかったので。それに教授と私ではサイズが違いますし…。あと、ネクタイはもちろん余分はありますが…教授が身に着けるに相応しいネクタイではないです。そこらの店で買ったものですから…」
一瞬、黙った教授は話し出す。
「ワイシャツは、私の部屋に替えが置いてあったハズだ。昨日のを着て行って回診前に着替える。ネクタイも。
それに私のネクタイは確かに今でこそ値の張るものを締めているが、アメリカに渡った時は極貧生活だった。何でも一流品という長岡先生のような育ちはしていないので、相手に不快感を与えるものでなければ、何でもいいというのがホンネだ。
何しろ日本の医師免許は向こうでは通用しない。佐々木前教授のツテで紹介された病院も最初の肩書きは『手術室助手』だ。医師でもなければ技師でもない、タダの下働きだから給料も雀の涙だった…な」
「日本でなら医師として働けるというのにまた何故?」
祐樹の素朴かつ誰でも抱く疑問に彼は答えず、曖昧に微笑する。
「理由か・・・もっと親しくなれば話しても良いが、今はダメだ。ネクタイは祐樹のを借りていいか?」
もっと聞いてみたかったが何しろ時間がない。回診の前に阿部師長に手当てをして貰いたかったので。
「ええ、それはもちろん」
お互い、スーツに着替えて出勤準備を整えた。時々香川教授の身体がふらつくので目を離せない。
「朝食は、昨日散々祐樹に迷惑を掛けたから奢る」
「病人はそんな気遣いをしないものですよ…」
狭い玄関先でそんなことを言い合っていた。
「……では、これは迷惑料の一部金…」
医療用の廃棄物という色気のないが大きな荷物を持った祐樹の身動きが不自由なのを利用して、首筋に両腕を回すと彼の方からキスをしかけてきた。
が、目測を誤ったのか唇と唇ではなかった。祐樹の頬に変な角度で彼の唇が押し付けられた。明らかに目的は唇のハズのキスだった。場所を確かめる前に目を瞑ったのが間違いだったらしい。目を瞠って自分の失敗に驚いている彼の顔を、微笑ましく見詰める。
――キスの仕方も知らないのは、単純に嬉しい…――
「こうするんですよ。唇が触れる直前までは薄目を開けてちゃんと見るんです。そして、場所を確認するというのが基本ですかね…」
そう言いながら屈み込んで唇を重ねた。
「さぁ、朝食に行きましょう」
「……分かった……」
心なしか悄然として教授が付いて来る。祐樹は自分のネクタイが彼の咽喉に絡みついていることに会心の笑みを心の中で漏らした。
ネクタイには束縛という裏の意味がある。祐樹のネクタイを教授が几帳面かつ精緻な指の動きで結んでいるのを見ることが出来ただけでも良しとしよう。
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