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第六章 第17話

 香川教授が「悪寒がする」と言っていたので、4月下旬とはいえ、エアコンの温度は高めに設定した。  なので、上半身裸で下半身は膝までのスエット姿でも全く寒くない。  彼の寝息が落ち着いてきたようなので彼の身体を抱き締めて囁くことを止めた。彼の睫毛に宿っている小粒のダイアモンドのような涙の雫を唇で吸い取った。血の気のない頬に流れている涙の痕も唇を這わせ舌で舐め取る。 ――何か栄養の有るものでも買ってこよう――  そう思ってベッドから降りかけた。このマンションは借りているが、帰宅するのは稀なので当然冷蔵庫には何も入っていない。ベッドも、病院の宿直室の方が使用頻度は遥かに高い。これは皆同じだろうが…  すると眠って居るハズの香川教授の手が祐樹の腕を掴む。 ――まさか、起きたのでは?――  ゆっくり休んで欲しかったので慌てて教授の顔を見た。目も瞑っているし、呼吸も寝息のそれだ。無意識らしい。睡眠は継続中のようだ。  ベッドから降りるのを諦めて今夜はずっとこうしていようと判断した。添い寝の形に横たわり、指を絡ませた。  容態が大分落ち着いてきたのか、教授が毛布を跳ね除けた。もう悪寒は感じていないのだろう。  ただ、体調不良の今は暖かくして休んだ方が良いに決まっている。毛布をかけてやろうと身体をずらせる。  偶然彼は祐樹の心臓の辺りに耳を付ける体勢になった。祐樹の鼓動が聞こえたのだろうか、安堵の溜め息を漏らす。その吐息があまりにも切実だったので、そのまま彼の頭を自分の胸に寄せて手で固定した。  彼の柔らかな髪の感触を楽しみながら。心臓の鼓動の音を聞くと安心するようで、彼の寝息が安らかなものに変わる。  普段の仕事では鼓動はモニターや診断画像越しにしか見ないし、手術の時は人工心肺を回すので音としては心臓の動きを把握しない。それにも関わらず香川教授が心臓の鼓動に――例え薬で眠っていて無意識だとしても――拘泥するのはやはり手術が失敗したら…という恐怖感の発露だろうと思う。  身体を動かさないように細心の注意を払い彼の身体に毛布を掛けてからエアコンの温度を下げる。一緒の毛布にくるまる以上は、部屋の温度が祐樹には高すぎたので。  いつの間にか眠ってしまったらしい。  カーテンを閉め忘れたベランダから清澄な太陽の光が差し込んでいることに気付いた。  彼はまだ眠っている。祐樹の胸に頭を預けて。出来るだけ長く休ませたかったので――薬の効果は切れているハズだ――じっとしていた。  しばらく彼の甘く整った顔を見ていた。目の下の蒼さが少しはマシになっているような気がする。と、目蓋が動き始めた。覚醒が近いらしい。時計を見ると7時だった。  教授も12時間以上は眠っている。今日の体調はどうだろうか?  回診も手術も休むことは困難だ。教授回診は回診に付き従う医師や看護師が前もって準備しているし、患者さんの手前もある。  手術もそうだ。手術室の予約から麻酔医の手配、手術室に従事する技師たちまでスケジュールが組まれている上に、仕事だけは頼りになる長岡先生が、手術患者の投薬を手術の時間に合わせて微調整をしているのだから…。  彼の目蓋が開く。いつもは強気な光を宿している瞳が薬のせいだろうか、ぼんやりとしている。 「おはようございます」  そう言ってから唇にキスを落とす。  びっくりしたようにそのキスを受けた彼はたちまち昨日のことを思い出したらしい。 「お早う。祐樹。色々迷惑を掛けて済まない。ところで杉田弁護士のところに阿部師長は行って、そして話は進んでいるのだろうか?」 「はい。両方から昨夜電話を貰いました。5日持ちこたえれば何とかなりそうです」  そう言ってから詳しい経緯を話す。やはり今の彼の最大の関心事はそれだろうな…と思う。 「そうか。長岡先生が遅れたわけは?」  昨日、言い訳を考えていたのですらすらと言えた。 「何分、彼女はこの町を知りませんので、独特の住所表記でパニくったようでして…それで迷子に・・・」 「確かに東京育ちの人間には分かりづらいかもな…『上がる』だの『下がる』だの」  京都の道案内には「○○通り下がる」といった京都独自の表記がなされる。知らない人間が分からなくても仕方がない。 「もともと、長岡先生は方向音痴だそうですし、阿部師長が杉田弁護士のところに行けたのだから良しとしませんか?彼女も遅れたことを反省してましたし・・・その話題を彼女に言うのは少し気の毒だと…長岡先生のこの件はスルーしませんか」  教授が長岡先生に話を振ると彼女は悪気がないにせよ、ポロっと何かを口に出しそうだ。  教授は不思議そうに首をかしげた。 「祐樹がそう言うなら、そうするが…?」 「ええ、是非。…ところで、今日は出勤なさいます?」 「ああ、そのつもりだ」  躊躇のない一言だった。 「では立ってみて下さい」  ベッドからすらりと下りたが、足元が覚束ない。傾ぐ身体を抱きとめた。 「増血剤のアンプルがまだ有りますので、打っておきましょう」 「頼む。それとブドウ糖とビタミンのアンプルも有っただろう?あれも…」  昨日、彼は薬品を見ていたので覚えていたらしい。 「分かりました。阿部師長が、点滴などは救急救命室に揃っているから、仕事に行く前に寄るようにと言ってましたが?  それと、やはり内科の先生に診て貰った方が良いような気もしますが…」 「自分の身体は自分で分かる。疲労性貧血だろう…それにあと五日持ちこたえればいいと分かったので、精神的にもかなり楽だ…阿部師長の厚意は嬉しいが…。ところで、祐樹、昨日誘ってくれたコト、しないのか?」  言った瞬間顔を背ける。横顔だけが見えているが頬は紅く染まっている。  それまで「そういう誘い」をかけていたことはすっかり忘れていた。 「病人にそんなこと出来ませんよ…さすがに。これでも医師の端くれです」  祐樹が話し出すとこちらを向いた。祐樹の瞳を凝視している。どこか不安そうだった。 「治ったら…?」 「もちろん、お誘いします…よ?」  彼の瞳の光が柔らかくなる。 「では、早く治す」  その言葉に笑いを誘われ紅い頬に口付けた。

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