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第六章 第16話
「道に迷ったとかですか?」
「それもある。何しろ目印にマクドナルドを覚えていたからね…たくさんあるのに…。行く道で道に迷ったので、タクシーに乗って、地図を見せたら運転手さんに『歩いても5分もかからないですよ』って言われたらしいんだけど『帰りもお願いするから』と言って乗り込んだらしいの…」
それでも計算が全然合わないので思わず突っ込んでしまった。
「4時間も迷っていたのですか?」
「そうじゃないの…印鑑というものは、石や象牙でイチから彫って貰う物だとばかり思っていたらしいのよ、ね。しかもイチバン上等の値段のを…。象牙にするか、御影石にするか、それとも渋く柘植の木にするか相談したらしい。
次にそれから書体というのかしら?どんな文字で彫って貰うかを相談してオーダーしていたの・・・まぁ出来るだけ、急いで貰ったみたいなのだけど…
その所要時間が4時間」
「…・・・」
くわえていた煙草が落ちる。驚愕のあまり頭の中に象がダンスをしているような衝撃を感じた。
――教授もマサカそこまでズレているとは予測出来ずに指図しなかったのだろうな――
「星川という出来合いのハンコを買えば良いだけじゃないですか?」
「出来合いのハンコが有ることを知らなかったそうなのよ…彼女の常識ではハンコは彫って貰うものなのよね…。まぁ、あのいつもの洋服やバッグを見れば、納得するけど…。看護師達の噂は滅多に入らない私まで、彼女の『本日の服装トータルでお幾ら』っていう話が伝わってくるくらいお金持ちで、しかも育ちが良くて世間知らず。医師としては優秀なのは認めるけど…まぁ、ちゃんとお遣いは果たしたのだから…」
「………そうですね。終り良ければ全て良しということにしましょう」
――呆れて物が言えない――という昔からの言葉が頭の中をリフレインする。無理やり声を出すのに苦労した。
「怪我のことは教授に言うなと言われたので、『言わない代わりにタクシー代と印鑑代を自腹で払いなさい』と言っておいたわよ」
この件は香川教授には絶対内緒にしておこうと思った。これ以上彼に余計なことを考えさせたくない。
「分かりました。明日、教授は出勤されても大丈夫ですか?」
「うーん。起きられないようなら休んだ方がいいけど…起きられたら病院に来て総回診をする前か後にでも点滴を打つためにも病院に来た方がベターかもね。じゃ、教授をちゃんと看病してね」
「そうですね…とても参考になりました。有り難うございます」
そう言って、電話を切った。
彼女の内科医としての腕は認めるが、ここまで社会常識が欠落していたとは…。しかし、味方が少ない以上は、長岡先生に頼らざるを得ない。
今度からは自分が気をつけて、幼稚園児――といっても祐樹の回りに子供は居ないが――に対してお遣いを教えるようにしよう、そう思うと眩暈がした。
落ちた煙草が燃え尽きてしまっていたため、二本目に火をつける。また電話が着信を知らせる。発信者は杉田弁護士だ。
「田中先生…話は聞いたよ。大変だな。香川教授の容態はどうかね?」
「今、私の家なんですが、薬が効いて眠っています。過労だそうですが。栄養を摂って休ませれば大丈夫だと思いますが、明日は内科の医師に見せます」
「そうか。お大事にと伝えてくれ。
いくら教授の寝顔に欲情しても、じっと我慢だぞ…『グレイス』で今人気ナンバー1のアイドルを独り占めしている田中先生への警告だ。病人に手を出したら…『グレイス』には居られないようにしてやる」
笑い声なので冗談だと分かった。ただし、杉田弁護士は香川教授の容態を心配しているのは本当だろうが。
「さて・・・今日来られた阿部看護師は素晴らしい人だ。私がうっかりしていたことを察したのか先回りした配慮…。何だか分かるかね?」
それだけで分かるわけはない。とにかく話を聞こうと壁に凭れた。少し冷え込んできたが。
「星川さんの生年月日から現住所・本籍地までの情報を持ってきてくれた。ビックリして聞くと、『万が一必要だったら困りますから』と涼しい顔だ。彼女はとても知的で魅力的だ」
杉田弁護士が女性を褒めるのを初めて聞いた。
何故、阿部師長がそんな情報を持っていたのかは分からないが、確かに情報が多ければ多いほど良いだろう。個人情報をどうやって調べたのかは明日にでも聞いてみよう。
「それと、良い知らせだ」
「何ですか?」
「私が駆け出しの弁護士の頃に勤めていた弁護士事務所の所長は弁護士会の重鎮だったことを思い出してね。ご無沙汰をお詫びする名目にかこつけて目的の銀行とは付き合いがないかを聞いてみた。ダメ元でね。
すると、驚いたことに頭取の個人的な弁護――これはプラーベートな訴訟なので詳しく言うと守秘義務違反なので勘弁してくれ――と共に、その銀行の顧問弁護士もしているとのことだ。それで星川君の情報開示に協力するように頭取に話してくれると約束出来た」
「それは嬉しいです」
「だろう?5日以内に返事は来るとは思うが・・・それまで持ちこたえてくれよ。それでは次の約束があるので」
通話を切った後、煙草の煙を吸い込むといつもよりも美味しいように感じた。杉田弁護士が医師会や大学病院といったところを顧客に持つように、杉田弁護士の元上司は経済界の保守派を顧客に持っているらしい。医師会も保守派の弁護士しか使わない。
さて、買い物に行こうとベランダから寝室に戻ると、教授の様子がおかしい。汗をかいていて、口が動いている。目は瞑ったままだったが。
「カウンターショック。……拍動…戻ってくれ」
「こちらへ…戻れ。手術は完璧を期した。再び…脈を刻め…祈る…から。」
呂律の回っていない口調だったが、どんな夢を見ているのかは自分でなくても分かるだろう。注射した睡眠薬だけでなく他の睡眠薬でも夢は見ると文献に書いてあった。それが悪夢を見せているのだろう。彼の閉じた両目から大粒の涙が雫になっている。
起こすのは避けたかったので、そっとベッドに上がり先ほど教授が喜んでくれたように体重を掛けて抱き締めた。そして、耳元に低い声で囁き続ける。確か聴覚が睡眠時は一番活発だと学生時代丸暗記した医学書の載っていた。
「大丈夫です。心臓は動いていますよ。失敗なんてしてません、今までも、これからも」
その言葉を聞いたせいか、寝言はなくなった。この状態で1人にしてはおけない。祐樹も服を脱いで、彼の毛布越しの身体を抱き締めることにした。
今度こそ悪夢を見させないために。
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