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第六章 第15話
時計を見ると5時半だった。あの薬は確か半減期(持続時間)が長かったな…と心臓外科が専攻で精神科とは縁遠くなった記憶を掘り起こす。睡眠不足ならちょうど良いだろう。さすがは百戦錬磨の阿部師長の指図だと感心した。
彼の安らかな寝息を聞きながら、肘枕を付いて寝顔を眺める。長い睫毛の下に蒼ざめた部分がある。彼の不眠と過労を物語っているようで痛々しい。
そして、彼が眠りに落ちていく時に紡いだ言葉…。
確かに、同棲していたカップルが別れた時、一方が出て行きもう1人がその部屋を使うならそこかしこに元同棲相手の思い出や痕跡が残っているだろうな…とは思う。同棲なんて面倒なことはしたことはないが。
出て行った相手に未練を残していた場合は切なくもなるだろう。
しかし祐樹は同棲を望んだわけではなく、部屋に入る許可を貰っただけであんなコトを考えていたとは、正直意外だった。
彼の性的経験値が高くないのは分かっている。過去に同棲していたなら、もう少し経験を積んでいそうだ。
この年になってウブなフリをするとも彼の性格上考えにくい。そもそもRホテルに強気で誘ってきたのは彼だ。整合性に著しく欠ける香川教授とは本当はどんな人間なのかをもっともっと知りたくなった。
彼は過去部屋に入れて後悔した人間――おそらくは男性――が存在するのだろうか?その人のことを未だに忘れていないのだろうか?
そんなことをつらつら考えていても現状の打開には全く役に立たないことに気付いて自嘲の笑みが漏れる。かつて付き合った相手の過去など思い巡らせたことは一度たりともない。
今は行動の時だと思う。さて、何から始めようかと考えると、彼がいつ目覚めても良いように食料を買いに行くことだ。
静かにベッドを抜け出した。
咽喉が渇いていることに気付き、先ほどのグラスにウーロン茶を注いで飲むことにした。
その時フト――覚え違いではないだろうな?――との懸念が浮かぶ。薬を飲む時は水が鉄則だが、テパス(精神安定剤)を飲ませた時に――喘息の薬ではないからウーロン茶でも大丈夫――と頭の隅で思っていた。ウーロン茶に含有されるカフェインと喘息の薬で副作用が誘発される…ハズだったのだが。
大学病院、しかも心臓外科に勤務していると学生の時必死で覚えた知識がごっそりと抜け落ちていることを痛感した。まぁ、普通の病院でも医師は薬の処方だけをして、飲み方の詳しい説明は処方箋を持って薬剤師のところで聞くのが当たり前の世の中になっているが。慌てて勉強用のスペースの明かりだけを点けて参考文献に当りをつけ、立ったままで調べた。間違っていたらどうしよう…とドキドキしていたが、正解だった。デパスはウーロン茶で副作用は起こさない。
強いて挙げるならカフェインが睡眠を阻害することだが、現に彼は眠っている。大丈夫だろう。
ホッとした途端、煙草を吸いたくなった。――彼の安眠の邪魔になる確率が皆無ではない。仕方ないベランダで吸うか――と煙草とライターをポケットに入れる。グラスと灰皿を持ちベランダに向かう途中、マナーモードにしていた携帯電話が着信を知らせた。
グラスを適当に置き、ベランダへと出た。通話ボタンを押しながら煙草に火を点ける。
「田中先生、阿部です。無事弁護士の杉田先生と契約をしてきた。結構面白い人ね。で、教授の具合はどう?」
楽しそうな口調が一転して案じる声に変わる。この時間までかかったということは杉田弁護士からも話を聞いたに違いない。
「師長の診立て通りのようです。今、眠ってらっしゃいます」
「どこで?」
阿部師長にすれば何気なく聞いたのだろうが、地雷を踏んでいる。爆破させようか、それとも避けようか一瞬迷うが、彼女も協力者の1人だし、隠し事は躊躇われたので爆破させることにした。
「目が離せないので、私の家です」
「そう…それなら安心ね。あの薬、多分一晩中は起きないとは思うけど…ゆっくり休ませてあげること。あ、長岡先生が転んで怪我をしたって書き置きしたっけ?」
何の含みもない声に安堵する。
「ええ、ただ実は転倒現場はチラっと見たんですよ。看護師さんも駆けつけてましたし、急いでいたのでそのまま立ち去りましたが。怪我の具合はどうですか?」
「怪我は、イソジンで消毒すれば良い程度の軽症。家でマキロンででも消毒しなさい!って怒鳴る程度の怪我だわ。まぁ行きがかり上、ウチで診たけど…印鑑を受け取らなくてはいけなかったしね…」
「そうですか…それは良かった。で、杉田先生はどう仰ってましたか?」
長岡先生の怪我が怪我とも言えないレベルなのでスルーする。印鑑も作って来るという仕事は果たしたようだったので。
「あたしが先生の事務所に行った時にはもう銀行に送る電子内容証明は作成済みで、あんまり遅いから先に送信しようかと思ってらっしゃったみたい。でも、付け加え事項があったから…私の目の前で送信してくださったわよ。そのコピーを教授に渡してくれって預かっているのだけど、どうすればいい?」
「どんな内容ですか?」
「かいつまんで読むと、『代理人として貴行…って銀行のことね…と、星川さんの取引状況を5日以内に当職までに返答されたい』って。今日は水曜日だから月曜日までって期限切りますからって笑ってらっしゃった。土日もカウントするなんてウチの科みたいね。電子内容郵便は即座に届くので早くて済みますだって…。土日は手術ないでしょ。で、明日は総回診だから、手術はナシ。金曜日と最悪月曜日さえ乗り切れば何とかなるかもね、いえ、何とかしなきゃね」
「本当にそうですね。これ以上教授に負担は掛けさせることは出来ませんから」
「ところでね、どうして長岡先生があんなに印鑑作るの手間取ったか…なのだけど」
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