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第六章 第14話

「その服のままでは窮屈でしょう?私ので良ければ着替えて下さい」  洗濯して干していたものを差し出した。そんなに自宅に帰れる仕事ではないが、幸いと言うべきか、ベランダに干しっぱなしになっていた長袖のTシャツとスエットは雨にも濡れていないようだった。。  彼はふらつきながら起き上がり、黙ってワイシャツとスラックスを脱いだ。   祐樹の差し出した服に着替える。 「ベッド…毛布に潜り込んでも良いのか?」 「もちろんです。寒いですか?」  普通、ベッドを貸すというのは布団なども含めて貸すものだと思っていたので、この発言には正直驚いた。  大学時代など、他人の下宿には泊まったことがないのだろうか?もっと気になるのは彼の過去の男性遍歴だ。経験値が浅いのは分かっていたが、恋人の家に泊まったことはないのだろうか?  と言っても、病人相手にあれこれ話しかけるべきではないと理性が辛うじて歯止めを掛ける。 「悪寒がする…」  毛布にくるまった彼は寒そうに震えていた。4月中旬だが、エアコンを暖房に設定した。  阿部師長の診立てでは「過労と貧血」だった。彼女は百戦錬磨の看護師なので診立てに間違いはないだろうが、きちんとした内科医に診せたかった。長岡先生が早く帰って来ていれば…と思ったが、診察となると上半身を晒すわけで…それは避けたかった。鎖骨上のキスマーク…。  何か食べるものを…とキッチンスペースを探した。仕事柄自宅に帰ることが少ないので冷蔵庫は悲しいほどモノが入っていない。ペットボトルのウーロン茶とバランス栄養食のゼリーが数個入っているだけだ。  賞味期限を確かめると両方とも大丈夫そうなので、ウーロン茶を大振りのグラスに注ぎ寝室に持って行った。汗をかいているので水分補給は必要だ。  手に持ったグラスを渡そうと手を伸ばす。彼は受け取ろうと上半身を起こそうとする。しかし、ただでさえ弱った身体にベッドのスプリングが邪魔をして起き上がることが出来ないようだった。  口移しで飲ませようかと思った。ただ、口移しだとそんなに大量のウーロン茶は飲ませられない。心持ち薄い肩に両手を差し伸べて上半身を起こさせる。  やはり咽喉が渇いていたようだった。コップ一杯のウーロン茶を美味しそうに飲み干している。 「もっと飲みますか?」 「いや、これで充分だ」 「少し待ってて下さいね」  そう言い残し、ウーロン茶をグラスに注ぎ、運転手が玄関先に置いていってくれた紙袋をキッチンスペースに運ぶ。薬を選んで、2錠口に入れるとグラスを持ちベッドサイドに行った。  両手で彼の頭を固定して口移しで薬と共にウーロン茶を流し込む、表情を覗いながら。  さすがに薬が入っていたのは分かったのだろう。 「祐樹、何を飲ませた?」 「精神安定剤のデパスです。睡眠不足だとお聞きしていましたので」 「そうか…」 「そうですか。起き上がったついでに、阿部師長が薬を沢山用意してくれましたので、それを飲んで休まれたほうが…」 「彼女がどんな薬を用意してくれたのか興味が有る。見せてくれないか?」  紙袋を持ってベッドサイドに行き、中身を毛布の上に並べた。 「さすがだな…。内科の処方は専門外だが、大学で習った通りの処方だ。今私に必要なのは増血剤に入眠剤だろう…」 「両方とも経口薬と注射用のカンフルがありますが、どちらにしますか?」  水分補給とベッドに横たわったのが効いたのか少し容態は回復したようだった。 「経口薬でゆっくりと祐樹と話していたいのはやまやまなのだが…明日は総回診だ…。早く回復するには注射だろうな…ロヒブノールと生食及び増血剤注射をお願いしたい」  嬉しいことを口に出してくれるが、明日の仕事を休む積りはないらしい。  彼が仕事面では頑固なことは知っていたので溜め息を押し殺す。  同じ薬剤でも経口摂取すると効果は一時間後が目安だ。その分注射は効き目が早い。増血剤は口から入れると胃に入るので、胃の粘膜を荒らす。注射の方がいいだろうと思った。 「では、注射しますが…なにぶん、久しぶりなもので…一回では静脈確保出来ないかも知れません…」  阿部師長は注射用のワンセットを用意してくれていて、中には静脈を浮き出させるゴムも入っていた。が、注射は普段の業務ではナースの業務で、自分でするのは学生の時以来だ。  医師免許は医療分野の最高資格なのでナースの仕事も当然習う。が、実践では到底及ばない。 「何度針を刺しても構わないから・・・」  ふんわりと微笑みながら長袖のTシャツの腕を捲り上げて握りこぶしを作る。アルコールで消毒する。  白い腕に蒼い血管が浮かび上がった。ゴムで巻くといよいよ蒼い。シリンジに薬剤を入れ、学生時代の実習を必死に思い出しながら静脈を確保する。  白くて細いとはいえ彼の腕は手術で鍛えられた筋肉が付いているようだった。静脈は筋肉に支えられブレない。失敗するのではないかという危惧は杞憂だった。 「上手いじゃないか…」  静かに言う彼の賛辞を聞きながら血止めのテープを貼り、Tシャツの腕を元通りにしてベッドに横たわらせる。祐樹は椅子を運んできて横に座る。すると毛布の隙間から手が出て来た。  黙って握る。彼が安堵したように吐息をつき握り返してくる。エアポケットのような静かな時間だった。  沈黙を破ったのは彼だった。注射が効いてきたのか、幾分舌足らずの声だった。向精神薬にはそういう効果もある。そして、アルコールのように心のタガを外す効果と、醒めるとその間のことも忘れてしまうという効果も。 「このベッド祐樹以外に何人が…使った?」 「私1人ですよ。そういうコトをする時はここには連れて来たことがないので…」 「そうか…」  握った手の力が強くなる。 「ところで、どうして私が教授の部屋にお邪魔するのを拒んだのですか?自宅の方が落ち着くでしょう?」 「…それは…一度祐樹を入れてしまうと…1人の時に絶対思い出してしまう…から…。そうすれば…切なくなる。私の部屋に居る祐樹のことをずっと独りで思い出すのは嫌だ…」  感情が制御出来なくなったのか、涙が一筋零れた。  それを見て、毛布の上から彼にのしかかり負担にならない程度に抱き締める。 「人の重みと温かみって気持ちいいものなんだ…な」  その言葉を最後に彼は眠りに落ちていった。

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