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第六章 第13話

 手術室の一件で、「香川教授の体調不良」が噂になってしまったのか、簡単に早退許可が下りた。祐樹も看病するという名目で許可を貰う。  祐樹の部屋には当然本格的な薬は置いていない。机の上の薬品だのシリンジ(注射器)などをじっくり見た。その中に紙片が挟まれていた。  薬の処方や注意点、その薬がどんな効き目をするかが簡潔に、かつ明瞭にまとめられていた。  内容は、造血剤や栄養剤のアンプルや睡眠薬――しかも同じ薬品が、錠剤とアンプルの二種類用意されていた――精神安定剤などだった。  阿部師長の知識は研修医である自分よりも遥かに凌駕する。多分、一人前の医師でも負けることがあるだろう…。ベテランの看護師の方が駆け出しの医師よりも頼りになる存在だ。  だが、看護師は薬の処方は出来ない。もちろん処方箋など書く権限もない。どうやって?と思ったが、阿部師長なら、アゴでこき使える医師は何人も居るハズだ、祐樹も含めて。  紙片の最後にこう書いてあった。 「長岡先生から無事貰ったので、例の場所に行って来ます。長岡先生は怪我しています。たいしたコトはないけれど…一応ウチで治療するように指示しました。遅かった理由は想像を絶するものなので…目的を果たしたら田中先生の携帯に電話します。  香川教授は多分自宅で療養を望むと予想しましたので、必要なものは多分全部揃っていると思いますが、もし足りないものが有ったら、遠慮せずに救急外来か私の携帯に電話して下さい。  教授には、くれぐれもお大事にとお伝え下さい」  走り書きだったが、彼女の心配ぶりが良く伝わってくる文面だった。具体的なことをボカしているのは、万が一この紙を「敵」に読まれた時のための用心だろう。長年、壁に耳アリ障子に目アリの大学病院に勤めているだけのことはある。  そんなことを思ったのは一瞬だけで、教授の様子を見る。手術で体力と精神力を使い果たしたせいだろう、紙のように白い顔に大粒の汗が浮いている。 「歩けますか?もし、何なら応援を呼びましょうか?」  少し掠れた力ない声で返事があった。ソファーに横たわっているが、やはり早急にベッドで休ませてやりたい。 「大丈夫だ。人目に付きたくない…関係者用の門までは歩ける…と思う。そこに門にタクシーを」 「分かりました。今の時間、タクシーは関係者用の入り口にはいないと思いますので、呼びに行って来ます」 「デスクの電話の近くにタクシー会社の電話番号を書いたメモがあるはずなので済まないがそれで呼んでくれ」 「了解です」  彼の執務机の上に電話番号一覧が有った。タクシー会社の電話番号をプッシュして、呼び出し音が鳴っている間に番号一覧が目に入った。  一番上の番号は覚えがある。それも道理で祐樹の番号だ。携帯と自宅の番号と共に「Y」の文字が几帳面に記されていた。 ――・・・一番上に書いてくれていたのか…――  そう思うと無性に胸が熱くなる。  至急車を手配してもらうように差配して電話を切った。  阿部師長が用意してくれた薬品などを手早く紙袋に入れてから、教授のいつもより白い薄い唇にキスを送る。少しでも暖まってくれればいいというのが表向きの気持ちで、内心はしたかったからだ。  体温を与えるように長めの触れ合うだけのキスをして、少しだけ唇を離して小声で言う。 「着替えて来ますから、もう少しだけ待っていてくださいね」  頷いた彼を確認して、ロッカーに走った。――今日は走ってばかりだな――と思うが決して不快ではない。  大急ぎで教授室に戻る。入室の許可を得て、彼の横に立つ。 「立てますか?」  そう言いながら両腕を持ち、少し身体が浮いたところで、彼の細い腰に手をかけて起き上がらせる。一番負担が掛かるのが起き上がる時なのは知っている。 「有り難う」  小声で囁かれ、不覚にもドキリとした。普段より緩慢な動作ではあるが、自力で歩けそうだ。肩を貸すのはやぶさかではないが、病院内ではしないほうが無難だろう…。  幸いにも人が居ないエレベーターに乗って関係者用の入り口まで行くと、手配したタクシーが停まっていた。二人の様子を見て、運転手が車から降りてくる。彼に紙袋を渡し、助手席に置いてもらうよう依頼する。この時間は準夜勤のスタッフも出勤時間には早いため、人影はない。  教授は無理に歩いたのだろう、肩で息をしていた。頭をぶつけないように注意して先に乗り込ませ、祐樹も後から乗る。 「苦しかったら、私に凭れて下さい」  そう言ってから運転手に自分のマンションの住所を告げる。車は静静と走り出した。  教授は祐樹の肩に顔を埋めている。 「寒いですか?」 「ああ」  その言葉を聞いて、黙って右手で肩を抱いた。悪寒がするのか震えている。  運転手も状況を察したのか話しかけてくる。 「暖房入れますか?速度はゆっくりの方がいいですよね」 「ええ、お願いします」  程なくして祐樹のマンションに着いた。さっきよりも彼の容態は悪化しているようだ。大粒の汗の雫が白皙というより蒼い頬を伝っている。 「スミマセン、この部屋番号なのですが、紙袋を持って鍵と扉を開けていて貰えませんか?」  料金を余分に支払って運転手さんに依頼する。 「承知いたしました」  彼は後部座席を手で開けてから、エレベーターで祐樹の部屋に先に行く。 「教授、着きましたから車から降りることは出来ますか?」  そう言って、手を引く。頭を打たないように、タクシーの扉の上部を手でカバーして降ろす。身長はそこそこあるが、細い身体だ。祐樹の体力にも自信はある。  腰と頭に手をかけて抱き上げた。長い間は多分無理なので、手早く自分の部屋に運び込んだ。  起き抜けのままの、少し乱れたシーツの上に身体をそっと横たえた。

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