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第六章 第12話
黒木准教授が教授の入室を見て言った。
「直ぐに執刀医を変わります」
「大変迷惑を掛けて申し訳ないです」
香川教授が執刀医の位置に付いた。本来ならば、順送りで黒木准教授が第一助手…となるのが当たり前なのだが、何を思ったのか、教授の顔が見えるところまで退く。手術には参加しないようだった。
柏木先生も、教授の体調を気遣ってだろう、星川看護師にもうワンテンポ早い指示を出し、教授に術具をしっかりと手渡している。
教授の指先はいつものようにエレガントで精緻なリズムを刻んでいるが、マスクから露出している額の部分は汗の珠が浮いているのを祐樹は見つけた。彼が手術で汗をかいたことがないのは知っている。相当無理をしている証拠だ。――大丈夫だろうか?――
教授の担当は、心臓や大動脈の切断と素早い縫合だ。
万が一、手術中に眩暈でも起こしすとメスが大動脈を切断しないとも限らない。
手術室は異様なムードに包まれた。祐樹がそっと星川看護師を見るとほんのり微笑している。これ以上そんな顔を見ると頭に血が上りそうなので、手術のチェックを厳密にしていた。
黒木准教授が突然、口を開く、さすがに小声だったが。
「万が一のことを考えて、そこの君、この患者さんの輸血パックを20単位用意しておいてくれ。
それと…この手術は録画されているハズだ。上の手術見学室ではリアルタイムで術野が鮮明に映し出されているハズ・・・万が一事故になった場合に備えてだが…手術見学室のモニターをここに運び込めないだろうか?」
指名された若い看護師が慌しげに手術室を飛び出す。
20単位とは、またとてつもない量の血液を手術室に置いておくのだなと思った。が、動脈を誤って切断した場合大量出血による出血性ショック死が考えられるので、その位は備蓄しておく必要があるということなのだな…と祐樹は学んだ。
「モニターを動かすのは、多分出来ると思います。機械マニアなもので」
そう言ったのは柏木先生だった。
「では、第一助手を田中先生にしてもらい、柏木先生に運んでもらうモニターで術野をきちんと把握し、万が一に備えます。宜しいですか、香川教授?」
額の汗の珠がさっきより大粒になっていた彼は、返事を頷きで返した。
その返答に、黒木准教授は手術室を一瞥する、まるで指揮は黒木准教授が取るといった態度だったが、淡々としているので嫌な感じは受けない。
柏木先生は祐樹に「後は頼んだ」と耳打ちして、手術室を出て行った。
看護師に汗を拭って貰っている香川教授の手技はいつもと変わらないように見えた。
が、何時倒れるか分からない状況では、せめて手術道具を確実に手渡し、手術のサポートをするしかない。
黒木准教授も邪魔にならないように術野を凝視している。祐樹も必死で教授の手術のメスの方向などを覚え込もうとした。
手術室の扉が開き、柏木先生と多分、何かの技師だろう…モニター画面を運んで来たのが視界の片隅に入る。モニターと録画の機械の接続が終れば、黒木准教授はそれを見て万が一の事故が起った時に対処することが出来る。
「モニター接続出来ました」
柏木先生の声が聞こえる。そして機械を動かす音も。黒木准教授の傍に運んでいるのだろう。
手術室は適温に設定されているが、祐樹も緊張の余り冷や汗が出てくる。第一助手としてすぐ傍に居るので、彼の白皙の顔が青ざめて行くのが分かる。
彼が道具を取りやすいように務めるしかない。後は星川看護士の顔を見ないように、道具を早め早めに指示するのがやっとだった。
「ここからは、黒木先生にお願い出来ますか?」
教授は力尽きたような口調で言った。一番難易度の高い手技を要求される箇所は全て終っていた。
「分かりました。後はお任せ下さい」
モニターで見ていたので引継ぎは滑らかだった。
「教授、後は大丈夫だと思いますので、お部屋か、上のモニター室ででも休まれては如何ですか?あそこなら椅子がありますし…」
柏木先生が見かねたように言った。祐樹も教授の顔を見て賛成だという顔をして教授に目配せを送る。
「いや、執刀医が席を外すことは出来ない。患者さんがCCUに運ばれるまでここに居る」
そう言って手術室の壁に凭れたが、立っているのも辛そうだった。
黒木准教授は状況を見かねたのか、いつもよりも縫合のペースが速い。
「心拍、戻りました」
黒木准教授が宣言すると、今までとは異質な喜びの溜め息が手術室に充満する。
「CCUに搬送」
その声を聞きながら、教授を見た。彼の身体がグラリと傾ぐ。
「危ない!」
そう言って、彼の身体を支えた。華奢な身体が氷のように冷たい。祐樹の手術着に縋って立っている教授の指先が背中を強く押さえる。多分手術着はシワになっているハズだ。どんな状況でも彼に抱きつかれるのが歓迎だったが。
黒木准教授はCCUまで付いて行く積りなのだろう、
「教授、ゆっくり休んで下さい。ストレッチャー用意させますか?病室で休まれますか?」
そう提案してきた。
「いや、誰かが手を貸してくれれば、自分の部屋で休める…心配と迷惑を掛けて申し訳ありません」
香川教授はそう言って黒木准教授を筆頭に手術室のスタッフに頭を下げる。皆はお大事にといった賞賛の顔つきをしていた。
黒木准教授が祐樹と柏木先生に視線で「部屋に送れ」と促す。二人で肩を貸し、スタッフ用のエレベーターで教授室まで上がる。
かなり気分が悪そうだったので、汗をかいた手術着を脱がせようとして、手が止まる。柏木先生がいる場所で上半身を裸には出来ない。――鎖骨のキスマーク…――
「後は大丈夫だから柏木先生は受け持ち患者さんの回診を…」
教授も気付いたのか、そう言ってくれた。
「そうですか、お大事になさって下さい。田中先生、後は頼みます」
一礼して柏木先生が出て行くのを待って、ワイシャツを着せ掛けた。鎖骨の上にある紅い情痕がいつもよりも白い肌に映えて一瞬目を奪われた。が、直ぐに応接セットの椅子に横たわらせる。寒そうだったので上着を掛ける。
「祐樹、有り難う」
そう呟く教授に「どう致しまして」と答えてから机の上の異変に気付いた。教授は疲れ果てたように目を瞑っている。
応接セットの机の上には、色々なものが置いてあった。シリンジ(注射器)だの、カンフルだの薬だの…そういったものが置いてあり、使用方法が書いてあった。
「今日は具合が悪そうですから、病室に泊りますか?」
「いや……職員が入院する…というのは避け……たい」
「では、ご自宅に帰られますか?今夜は看病しますが?」
「……祐樹が……居てくれるの…か?」
「ええ。自宅までお送りしますよ」
「自宅は嫌だ。それならホテルの方が良い」
何故嫌なのか…などを問い詰めたかったが相手は病人だ。逆らわないことにする。
「ホテルは…何か有った時にこの病院から遠いですから…狭くて汚いですが、私の家で構いませんか?」
――嫌だと言われるだろう…――と思っていたが、教授は一言「それでいい」と言う。
改めて机の上の薬品類を見ると、全部が今の香川教授に必要だと予測されるものだった。百貨店の紙袋もご丁寧に用意されている。
「スラックス着れますか?今日は早退しましょう。何も有りませんが、ウチに来て下さい」
そう言って、各所に連絡を取った。
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