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第六章 第11話
壁に掛かった時計を見て驚いた。術前カンファレスの始まる数分前だ。
「教授、お時間が…」
「ああ、カンファレンスの方は黒木准教授にお願いしておいた。本当なら、ゆ…田中先生が阿部師長の元に印鑑を運ぶ役割だったので、欠席の旨は伝えてある。手術は参加して貰うが…」
「では、手術準備に向かいます。教授は準備なさらなくて宜しいのですか?」
疑問に思って聞いてみた。仮にカンファレンスに出席しなくても、「手洗い」などの準備は必ず必要だ。
「ああ、手術の時間ピッタリに行くので大丈夫だ」
そう言えば「手洗い」も彼はとても早いと柏木先生から聞いていた。準備時間が祐樹とは比べ物にならないほど早いに違いない。まぁ、教授専用の――前世代の遺物だが――手術準備室があるので、待ち時間は短縮出来るが。
「では、私はこれで…。昼食ご馳走様でした。後ほど手術室で…」
一礼して立ち上がる。釣られたように教授も立ち上がったが、フラっとよろめき、応接室のソファに再び座り込む。
扉の近くまで歩いていた祐樹よりも阿部師長の方が教授の近くに居たし、彼女はベテランだ。脈を取り、目蓋の裏側をテキパキとチェックしている。
「貧血と過労だと思う。既往症はない?」
「ええ、有りません」
彼の様子が気にかかってじっと見詰める。その視線に応じたように弱弱しい微笑が返ってきた。
「最近、食欲がなくて…しかも睡眠も浅いので・・・不覚を取りました。医師として失格ですね…」
自嘲気味に呟く教授を視線だけで黙らせた阿部師長は祐樹に言った。
「田中先生、香川教授が絶対執刀しなければならない手技と、他の先生でも大丈夫なのって有るわよね?貧血ごときで輸血や点滴もオーバーなんだけど…背に腹は変えられないから」
「分かりました。幸い午後の手術の第一助手はこの医局イチの経験を誇る黒木准教授です。
基礎的なことは任せても大丈夫だと思います」
佐々木前教授の時代から手術を手伝ったり、執刀の経験も若干あったりする黒木准教授なら、香川教授ほどのメスの冴えはなくても、ある程度までは任せることが出来そうだ。
「電話借りるわよ」
誰にともなく彼女は言うと、受話器を取り上げた。どうやら救急救命室に繋いだらしい。
「教授の血液型は?」
額に汗を浮かべた彼は呟くように言う。
「Rh+のA型です」
「あ、緊急オーダー。誰にも分からないようにしてRh+のA型の輸血パック二単位とブドウ糖重症点滴セットを心臓外科香川教授の部屋まで持って来て!今手の空いている看護師で口が固ければ誰でもいいから!あと、この件が外部に漏れたら……分かっているわよね」
893の姐御のようなドスの効いた声で〆た受話器を置くと、祐樹に向かって命じるように言った。
「田中先生は手術室に行く!点滴なんかは看護師の仕事。あれもこれもやろうとしない!」
教授も形の良い唇を真っ青にしながら辛うじて言った。
「点滴を早く終らせて貰って、手術室に行く。それまで術死が起らないように、充分注意してくれ。術死が起る悪夢ばかりを見る夜だった。それを現実にしないでくれ、頼む」
「分かりました。阿部師長、後は宜しくお願いします」
そう言って緊急事態を告げるべく全速力で走った、禁止されているのだが。
同じく走っている女性を視認する。視力は良い方だ。よく見ると長岡先生だったが、声を掛ける余裕などない。と、ものの見事に転倒し、バックの中身が散乱した。その中に紙袋があるのが見えた。
あの紙袋の中身はハンコだろうな…と一抹の不安がこみ上げるが、彼女も社会人だ。印鑑だと信じたい。
しかも、彼女が寄り道をして自分の買い物などをするような人間でないのは香川教授が信頼しているので明らかだ。
転んだ彼女には悪いが、手術室に行く方が優先順位は高い。それに近くにいた看護師が駆け寄っている。
ここは大丈夫だと判断して急ぐ。
阿部師長は杉田弁護士事務所に早いうちに行かなければならない。香川教授は誰が看る?と思って自分のバカさ加減にウンザリした。長岡先生は日常生活こそ頼りないが、優秀な内科医であることは疑えない。
彼女が付いていれば大丈夫だろうと思った。まさかさっきの転倒で骨折などはしていないだろう、多分。
手術控え室も準備室も誰も居なかった。時計を見ると手術開始5分前だ。
とにかく現状報告が先だと判断して白衣のままで手術室に入った。
足で開閉ドアを開ける。皆の視線が集まった。固い表情の星川看護婦もその中に居る。
――こうなったのもお前のせいだぞ――
一瞬睨みつけてから香川教授が倒れた件と、回復までの時間…点滴は量を調節出来るので一時間と踏んだ…は黒木准教授に執刀をお願いするという教授の意向を伝えた。手術室に動揺が走る。
だが、黒木准教授は、体格に相応しい胆力も備えているようだった。強い視線でスタッフを見回し、皆の動揺を押さえ込む。そして祐樹の言葉を聞き終わるとすぐに指示を飛ばす。
「田中先生は、直ぐに着替えて取り合えずは第二助手。執刀は私が出来るところまではする。柏木先生は第一助手で。執刀開始」
そう言って、第一助手の立ち位置から執刀医の場所に移動する。それを肩越しに見て、手術着に着替えるべく、控え室に戻った。
教授の容態は心配だったが、ベテラン中のベテランの阿部師長と長岡先生が付いているので、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
それよりも道具出しの星川看護師がどう振舞っているか気になった。「手洗い」を医師人生の最高速度で終らせて手術室に入る。
開胸が済んだところだった。黒木准教授は柏木先生のやり方を見習ったのか、それとも柏木先生が耳打ちでもしたのだろうか、道具は、柏木先生がイチイチ先回りをして指示している。
午前の電気メス取り落としの件も柏木先生は重視していると見えて、星川看護師の手からしっかりと手術用具を受け取っている。
第二助手の仕事は、執刀医や第一助手のミスがないかを確かめるというものだ。黒木准教授、柏木先生、そして、一番視線を当てるのは言うまでもなく星川看護婦だ。
「人工心肺に切り替える」
そう黒木准教授が宣言した時、手術室の扉が開き香川教授が入室して来た。
手術用の使い捨てマスクをしているので顔色までは窺えないが、足取りはしっかりとしている。
祐樹は思わず安堵の溜め息をもらした。
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