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第六章 第10話

「教授、好き嫌いは有りますか?」  サンドイッチを目の前にして聞いてみる・ 「…いや、特にないが…」 「では、このエビカツサンド頂いても宜しいですか?」  そう言うと彼は黙ってサンドイッチのパッケージを手渡してくれた。  二人とも午後の手術までに昼食を食べなければならない。手早くコーティングを破り食べ始めた。  教授は手に持ったツナ卵サンドを開封せず、アイスコーヒーを飲んでいる。 「召し上がらないのですか?」  時間が勝負の昼御飯だ。他の手術スタッフは今頃主に食堂で昼御飯を物凄い勢いで咀嚼しているハズだ。 「ああ、食べる…」  長くて器用な指先で包装紙を綺麗に破いた彼はサンドイッチを一切れ取り、ゆっくりと口に入れる。  祐樹が食べているエビカツサンドはとても美味しかった。手術で空腹だったこともあり、夢中で食べていた。フト、隣の視線に気付いた。彼は口を動かす祐樹をじっと見詰めていた。 「あ、もしかして、エビカツサンドお好きですか?もう二口くらいしか残ってませんが…食べかけで良ければ召し上がられますか?」  ツナ卵サンドよりもエビカツサンドの方が好きなら、そう言えばいいのに…と思ったのだが。 「特に好きなわけではないが…美味しいか?」 「ええ、美味しいですよ?」 「なら、ツナ卵サンドは祐樹にやるから、それと交換で…」  そう言うと、祐樹の手からエビカツサンドを長い手で優雅に奪い取ると口の中に入れた。 「本当だ。美味しいな…」  微笑んだ教授を見て不覚にもドキリとした。  そういえば、明日は手術よりも体力を使わない教授総回診だ。阿部師長に泣きついて宿直をナシにして貰い、デートというのも良いな…と思う。 「それはそうと今日の血管縫合術は素晴らしかった」  真剣な顔をして彼は言う。 「有り難うございます。救急救命室でみっちりと鍛えられましたから」 「血管縫合術がこなせるならば、立派な外科医だ」  そういえば医局の先輩にもそんなことを聞いたことがある。 「これからはもっと正確かつ迅速に行えるように努力します」  教授は懐かしそうな瞳で言った。 「ロサンゼルス時代、恩師が私に手術の一部を任せてくれて、その時は何とも思わなかったのだが、任せるというのは全幅の信頼が有ってのことなのだろう…な」 「全幅の信頼を寄せて頂いていたのですか?」  食べかけていたツナ卵サンドが気管に入るくらい驚いた。 「阿部師長から祐樹の手技についての報告は受けていた。それで試してみる気になった。ただ、他人の手術を見守るのは自分がするより緊張する。今日もハラハラして見ていた。  実際のところ現在、外科に不足しているのは術者だ。何時までも教授・准教授クラスが執刀医に居座り続けるのは良くない。かといって経験不足は困る。祐樹の件は瓢箪から駒のような感じで救急救命室に行ったのだが、これからは救急救命の北教授に正式依頼をして有望な外科医を夜間派遣することにする。幸い、こちらは長岡先生のお陰で夜間のナースコールも減ったことだし」  ハムとポテトサラダのサンドイッチの封を几帳面に破りながら独り言のように言う。 ――なるほど、やはり手術が終わってから教授が掠れ声だったのは自分に血管縫合を任せた緊張からだったのかー―  ハムとレタスのサンドイッチを手にとる。ツナ卵サンドは食べ終わったので。 「頂いてもいいですか?それにしても長岡先生、遅いですね」 「ああ、構わない。長岡先生は午前の手術中にこの部屋に印鑑を置いて帰るハズなのだが…」 「短気な阿部師長はジリジリしていますよ、きっと…」 「そうだな…午前の手術が終わったと同時に祐樹に救急救命室に印鑑を届けて貰おうと思っていたのだが、一体彼女はどこのハンコ屋まで行ったのだか…」  そんな会話を交わしていると、ドアがノックされた。噂をすれば影で長岡先生か?と思った。香川教授が「どうぞ」と声をかけた。 「いくら待っても、ハンコが届かないし、ウチに居れば救急患者が押し寄せてくるから…避難してきたわよ」 「これは阿部師長、済みません。手違いが有ったようで、印鑑が届いていないのです」  教授が頭を下げる。私服の彼女は髪の毛を束ねていないので別人のように見える。白衣を着て怒鳴り散らしている時とは違い、とても女性らしい感じがする。 「まぁ、午後は休暇取ったから良いと言えばいいんだけど…。あ、あたしの好きな野菜サンド!」 「宜しければ召し上がって下さい」  教授が言うと、嬉しそうに頷く。応接セットの机に残っていた最後のサンドイッチは阿部師長の胃の中に消える運命のようだ。教授が余り食べていないことが気になった。 「田中先生、コーヒーね」 「はい、はい。分かりました。入れて来ます」  相変わらずの傍若無人さに苦笑して秘書室兼お茶出しコーナーへ行こうとした。 「『はい』は一度!」 「はい」  肩を竦める。 「あ、食べかけで悪いのですが、私のサンド良かったら食べて下さい、教授。手術は体力勝負ですから」 「ああ、そうする」 「それから、午後の手術は嗅覚も研ぎ澄ましていて下さい」  こう言えば彼には分かるハズだ。  ホットコーヒーを入れて元の席に戻る。阿部師長はここに留まって、長岡先生が戻るのを待って貰うことにした。それにしても長岡先生は無事帰って来るのだろうか?との不安がよぎる。

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