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第六章 第9話
手術室に声なきざわめきが広がる。ここでは声を出していいのは執刀医のみだ。
「分かりました」
祐樹の声を聞いて、香川教授の立ち位置が変わる。フト柏木先生の言葉が脳裏に浮かぶ。
「術者変わります。ついでに、道具出しはそこの機械に張り付いている看護師に変更します」
まだ20代前半の看護師が弾かれたように顔を上げる。機械とは、患者の脳波や血圧などを計測する装置だ。
「あの…私ですか?私は一年目の看護婦で、とても先生方のお手伝いは…」
ここが手術室なのを忘れたように話し出す。
「手術道具は頭に入ってるんだろ?なら、取り落としたりせずにきちんと俺に手渡してくれれば、それ以上は望まない。機械を見るのはそこの『ベテラン』星川さんに任せておけ」
星川看護師に聞かせるための思いっきりの皮肉だった。言葉遣いもワザと「偉そう」かつ高圧的に変えた。祐樹の意図が手術室全員に分かるように。
血管縫合術は救急救命室で散々させ…いやしてきた。出来ると思う。ただ、血管の太さが違うだけだ。手で、そして手が届かない部位にはペアン(手術用のハサミ。絹糸を絡ませて縫合にも使う)を持ち真剣な眼差してミリ単位の縫合をこなしていく。時間がどれだけ経ったのか分からないほど集中して三本の血管の縫合術を終えた。血まみれのペアンをトレーにカシャっと置いた。
「縫合完了しました」
「ご苦労」
教授の声は掠れていた。
気が付くと薄っぺらいグリーンの手術着に汗がべったりと噴出していた。いつもは風が入って涼しく感じていた術着なのに…。
いかなる手術でも汗をかかない教授と比べて、まだまだだな…と思う。縫合の跡を検分するように見ていた教授に声を掛ける。
「いかがですか?最善を尽くしましたが?」
祐樹の声も掠れていることに気付いた。緊張のあまりだろうか?
「ああ、完璧だ。この調子で励んでください」
「心臓を入れる。私の指示があるまで人工心肺はそのまま」
手術は何があるか分からない。カウンターショックの準備は…?と見渡すと柏木先生が手に持っていた。
「よし、心臓戻った」
そのまま患者さんはCCUに搬送されていく。
教授の一声で手術室が歓声に包まれる。その中で星川看護師が悔しそうな目つきをしていた。手術用のマスクをしているので分からないが恐らく奥歯も噛み締めているのだろう。
時計を見るとちょうど12時だった。予定時間に終ったらしい。
教授は手術室が沈静化した後にそっと左右を見回して祐樹に極上の微笑みと、親指を上に向け、「教授室で待っている」という合図を送ってきた。
急いで手術着を脱ぎ、消毒を済ませて白衣に着替える。本当なら手術室の並びにあるシャワー室にも行きたいところだが、時間がない。長岡先生は教授のお使いから帰って来ているだろうし、阿部師長を探さなくてはならないのだから。
教授室に駆け足で上がる。階段を苦にしていては外科医など務まらない。
教授室の扉をノックすると、「どうぞ」という教授の少し掠れた声がした。秘書は…と一瞬思って自分のバカさ加減に少し笑ってしまった。医師や特定の病棟に詰めて居る看護士以外は皆昼休みだ。秘書も12時から1時まではランチタイムのハズだ。
「失礼します」
そう言って、入室すると香川教授は執務机から立ち上がり、応接セットに座った。しかも祐樹の隣に。そして手に持っていたエビアンのボトルを一本祐樹に手渡す。一瞬だけ触れた手が冷たいハズなのに温かく感じた。
良く冷えたエビアンを一気飲みしていると、横の教授からは石鹸のいい香りがする。教授室にもシャワーがあるのでそこでシャワーを浴びたらしい。
「祐樹には急がしてしまったが…肝心の長岡先生がまだ帰って来ない…」
やはり少し掠れた声で困ったように言う。ちなみに最寄のハンコ屋さんまでは歩いても行ける距離だ。
「迷子ですか?」
「彼女の方向音痴はよく知っていたので地図まで渡したのだが…」
「彼女もれっきとした社会人ですから、その内帰って来ますよ」
香川教授はエビアンを二口飲んで言った。水分を補給したのが良かったのか、いつもの涼しげな声に戻った。
「祐樹も昼食はまだだろう?長岡先生が帰ってくるまで待機するしかない。一緒に食べよう」
「でも、ご迷惑では?」
「1人で食べると味気ないから…な」
言いながら軽やかに立ち上がり、ロッカーを開ける。紙袋を手にしてソファーに戻ってきた。彼が封を開けて中身を取り出す。大手コーヒーショップのアイスコーヒーのLサイズが2つ、厚めに切ったサンドイッチが5つだった。それを楽しそうに並べていく様子を呆然と眺めていた。
「その昼ごはん…私と食べるつもりで?」
教授は長い睫毛を震わせて瞬きをした。
「…いや、長岡先生が帰って来た時に一緒に食べるつもりで買いに行かせておいたのだが…彼女が帰ってこないので、祐樹と食べようかと思った」
「…そう…ですか…」
アイスコーヒーのLサイズは女性には大きすぎるのではないだろうか?4月といえどもまだ冷え込んでいる今日は特に。それにサンドイッチ5つとは…知り合って一月も経ってないが、香川教授はすらっとした長身に似合いの小食なのは知っている。長岡先生がどれくらい食べるかは全く分からないが、彼女も贅肉などない華奢な女性だ。その二人がサンドイッチ5個を分けて食べるというのはいかにも嘘くさい。
長岡先生が帰って来ても来なくても、祐樹用に用意したのは明らかだと推測する。
コーヒーをストローで飲んでいる教授に黙って頭を下げて「頂きます」と言った。
教授が春の陽だまりのような眼差しで微笑していた。
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