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第六章 第8話
扉の傍まで来るとくるりと後ろを向いて、「失礼しました」と言葉と共に一礼する。それが教授室を辞する際の礼儀だった。
彼はさり気無く視線を逸らし、机の一番上に置いてあった書類を取り、見入っているふりをしていたが目は縦に動いている。確かあれは英文の書類だったはずなのだが…。
「ああ、では手術室では期待、している」
扉を開けて廊下に出て、もう彼の顔に向かって一度礼をする。それが、教授室から退室する際の正式な礼の仕方だ。が、彼は知らなかったのか、他のことに頭が一杯だったかなのだろう。書類を机に置き祐樹の方を見ていたため、視線が合ってしまった。
その視線はいつもの彼らしくなく弱弱しい光を宿している。手術のことでも考えていたのだろう…
力付けるような微笑を送って手術の準備に掛かることにする。
白衣やその下に着ている上半身の服を脱ぎ捨て、「手洗い」に掛かる。ここで言う「手洗い」とは単に手を洗うことではない。まず消毒してから、イソジン溶液で指の先から中心に向かって念入りに消毒していくことだ。祐樹も医学生の頃はこれに一時間も掛けてしまい先輩に叱られたことがある。手順通り消毒していると横に柏木先生が立っていた。
「お、研修医が第一助手を連続して務めるようになったなんて出世したな」
笑いながら言うので冗談だと直ぐに分かる。
「ええ、お陰さまで…ただ私は教授の弾除けにしか過ぎませんが。それより、先生もこちらにいらっしゃるのまだ早いですね?」
柏木は器用な外科医の集まるこの場においても一番器用なのではないか?と思われる人物だ。当然「手洗い」も祐樹より10分は早い。
「実は医局に居たたまれなくなった。手術参加組ではない医師たちが医療の本分をすっかり忘れ去った話をしていたからな」
柏木先生は人の悪口は決して言わない性格だ。多分、敵を作らないという意図だろう。
祐樹よりも遅れて出勤してきたのだろうから、医局に入り、畑仲医局長と山本センセがあの下らないモテ自慢を延々話していたのだろうか?おそらく突っ込んでも彼はイエスともノーとも言わないだろう。なので聞くのを止めた。話を変えようとした
「『手洗い』いつも早いですね」
と言ってみた。
「俺より早いのは香川…教授だ。あの迅速で丁寧な『手洗い』をいつか自分もモノにしてやる」
柏木先生は職人気質なところがある。手術にも完璧を期さないと自分が許せなくなるタイプの医師だ。自分のように心臓外科が難関だから色々ある外科の中で心臓外科を選んだのとはワケが違う。
香川教授はもっと早いのか…流石だなと思った。
「今日の手術も荒れそうですね。そして明日も…」
そう水を向けてみると眉間に深いシワを刻んだ。
「ああ、星川看護師がいるから…な。明日ってお前、明日は教授総回診だろうが。手術は休みだろ?」
このところ他のことで忙しくしていて医局に寄る暇がなかった。香川教授は出来るだけ多くの総回診をしようとしている。それはかつての教授がしたような示威行動ではない。
他の医師が見落としたところをさり気無くフォローしたり、患者さんの訴えを真摯な態度で聞くためだったりする目的なのは祐樹はもう分かってしまった。
「あ、忘れてました…しかし道具出し看護師は教授権限で彼女を交代させるわけにはいかない…ですよね…やはり」
話しているウチにシワが深くなって行くのを見て、語尾が尻すぼみになった。
「あの人選は斉藤医学部長のオーダーだ。医学部長が帰国してオーダーを取り消す正式文書を提出しないとどうしようもない。ま、術者が変われば、他の手術室のナースに命令することは出来るが…な。」
祐樹はどうしようもない怒りに任せて、足で蹴るようになっている手術室のドアの足踏み部分を思いっきり蹴った。手は完全に消毒されているので手術室の医師は全て足踏み式だ。この部分に当たっても仕方のないことは百も承知だ。
教授を交えた術前カンファレンスが終り、いよいよ手術が始まる。
いつもなら間髪入れずに「開始」という香川教授の声が聞こえない。
何かあったのだろうかと、手術用の使い捨てマスクに覆われた顔をちらりと見た。それまでは一回、教授室で見たきりの手術内容の暗記が間違ってないかを脳裏で確かめていたので。
教授はじっと祐樹の目を見ていた、まるで祈るように。
祐樹が視線で「大丈夫ですよ」という目配せを送る。直後に香川教授の涼しげな声が聞こえた。
「開始する」
その一言で全てが動き出す
麻酔を掛ける麻酔医の隣で励ましているのは、祐樹の一年先輩に当たる新人医師だ。彼が主治医らしい。
麻酔が掛かるのを待って香川教授はよどみなく「メス・クーパー・開胸器」と指示していくが、星川看護師のレスポンスは相変わらずだ。
最初は様子見をしようと思っていので、彼女に皮肉げで意地悪な目つきをしてやる。こういう目つきも祐樹は得意だ。が、彼女はそれほどヤワではなかったらしい。視線をどこ吹く風と受け流し、ワザとテンポをずらして教授に渡していく。
「次はコッペルだろ?直ぐに手に持て」そこまで言われたら手に持たざるを得なくなる。
「寄越せ」
そう言って彼女の手から手術用の備品を手で催促する。いくら大学内のヒエラルキー内では研修医と一人前の看護師では後者の方が上だと言っても手術室の中は違う。
彼女は悔しそうな目つきで祐樹を睨んだが、それはスルーした。
香川教授の手技が一流の音楽家の奏でる楽器のようによどみなく正確に進む。
次は電気メスか…と思った瞬間、祐樹が発言する前に星川看護師が電気メスを持って教授に渡そうと動いた。教授もそれに反応して手を伸ばす。電気メスが星川看護師の手を離れる。教授も受け取ろうとしたが間に合わなかった。耳障りな音がして電気メスが床に落ちた。
教授と祐樹の視線が絡まりあった。彼はうろたえてはいなかった。想定内だと言いたげな潔い澄んだ目をしていた。
いくら手術室が消毒済みとはいえ、床に落ちた手術用具は使えない。手術室の新人だろうか…若い看護師が慌てて予備を差し出す。
その一件が有って以来祐樹が全ての用具を星川看護師にオーダーして受け取り、しっかりと教授に手渡した。
手術も最終段階…血管を縫い合わせる場面に差し掛かった。
「田中先生、お願いします」
冷静沈着で澄んだ香川教授の響いた。手術室の神の神託だ。
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