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第六章 第7話

 ドアから漏れ聞こえて来る密談に耳を澄ませて祐樹は怒りに震えた。  確かに自分達の仕事は、患者さんからすれば一生に一度あるかどうかの「手術」というマイナスのイベントだが、医師にとっては毎日の業務だ。他人の死の感受性については一般の仕事に就いている人よりも軽いような気がする。  何しろ「生死」が紙一重の場所に勤務しているのだから。  ただし、必死に患者さんを救おうとするのが職業的倫理だと信じて疑わない精神がなければ、この仕事には遣り甲斐がない。  ふと、阿部師長のことを思い出した。彼女は殆ど自宅に帰ることなく救急救命室に詰めている。その心情は「自分が居なければこの部屋は立ち行かない」という使命感だ。それでも、救急救命室には手の施しようのない患者さんも運ばれて来る。その患者さんの命を救うために血みどろになって奮戦している、誰のためでもなく、患者さんのために。  それが、「教授」というポストから香川教授を引き下ろすために患者さんの命を軽んじるマネは、虫唾が走る。  医局のドアを力いっぱい開けても良かったが、立ち聞きした内容は祐樹の頭の中にしか入っていない。いわば証拠がないので言いがかりだと一笑に付されるだろう。一介の研修医の立場としては反撃する術がない。大学病院は階級社会だ。祐樹は今のところそのヒエラルキーの一番下に属する。  来年になれば、医師として1人立ち出来るが、今の立場は「研修医」という名のひよっ子に過ぎない。  香川教授の第一助手に任命されたのも、彼が自分の腕を買ってくれて居る(と思いたい)が故の特別待遇だった。研修医が第一助手を務めるなど、前代未聞だろう。  杉田弁護士や阿部師長を巻き込んでの逆襲計画が着々と進んでいる今、自分が医局に乱入すれば、――畑仲医局長や山本センセは用心するだろう、自分も香川派と目されている以上は――。  ドアに耳を密着して聞いていたが、その後はどこの店のホステスが綺麗でタダでやらせてくれたか・・・や「男性は医師・歯科医限定の結婚相談所」のお見合いパーティに出席し、何人の女性と寝たかなどの自慢めいた雑談になっていた。自分も人並み(といっても相手は女性ではないが)に遊んで来たが医師という肩書きで遊んだことは一度たりともない。俗物振りに頭が沸騰するような気がした。  医局に入ると、怒りの余り何を言い出すか祐樹自身も予測が付かない。足音を殺して部屋から遠ざかる。  さて、どこに行こうか…と思った。何より昨夜も忙しかったせいで、今日の手術の詳しい資料――もちろん香川教授が作成したものだ――を入手していない。医局に戻ろうか…と思うが先ほどまでの陰謀の卑劣さを聞いた今では、しばらく医局から離れないと頭に上った血がまた再燃しそうだ。手術までには冷静になっておかなければならない。  それに何より手術の資料は読んでおかなければ。 ――教授室に行ってみようか――  そう思った。あそこなら、多分プリントアウトした物があるはずだし、香川教授も出勤しているハズの時間だ。彼の顔が無性に見たかった。職場では笑顔は見せてくれないことは分かっていたけれども。  医局のある階の医師たちのざわめきからすると、教授の部屋の有る階は静寂に支配されている。香川教授のネームプレートを愛しげに撫でた後、ノックをする。  聞こえてきたのは予想と異なり彼の秘書だった。 「お早うございます。教授に用が有って参ったのですが…」  そう言うと、中年の女性秘書は申し訳なさそうな顔をした。 「教授は手術前に長岡先生に用事があると仰って、長岡先生のお部屋です」  彼女に印鑑を買いに行かせる件だろう。 「そうですか…では、今日の手術次第をプリントアウトした書類は有りますか?」 「もちろんございます。御覧になられますか?」  彼女はそう言って、薫り高いコーヒーを置くと、きちんと整頓されているファイルから書類を抜き出し、控え室に消えた。コピー機の音がする。原本をコピーしているのだろう。  ソファーに座って待っていると直ぐに彼女は戻って来た。左上をホッチキスで留められている。  コーヒーを飲みながら、まずスタッフを見る。第一助手は自分で第二助手は柏木先生だった。秘書が気を利かせてくれたのか、午後の手術の書類も有った。そちらの第一助手は黒木准教授だった。恐らく学生の講義がない日なのだろう。  そして第二助手は柏木先生。祐樹は第三助手として名前が挙がっている。  今朝聞いた、畑中医局長や山本センセの名前はない。 ――実力主義のアメリカ仕込みだから、「無能」と思った人間はスタッフに入れないのだろうか…。まぁ、あの二人は政治力で今の地位を獲得した人物だ。   祐樹自身、彼らが助手を務めた手術に立ち会ったことは何度もあるが、かつては佐々木教授の足を引っ張ってばかりいたな…と今となって気付いた。  それに、畑仲医局長や山本センセは今の地位から言って手術室の助手はともかく、研修医や下っ端の仕事である足持ち――患者さんの身体を固定しておくだけの仕事だ――を割り振ることは出来ないのだろう。  書類の内容を頭に入れながらそんなことを考えていると、ノックもなしにドアが開いた。  この部屋でノックもせずに入室出来るのはこの部屋の主だけだ。  応接セットのソファーに座っている祐樹を見て、何とも表現出来ないような複雑な光を瞳に宿したが、それも刹那の間だけだった。 「お早う田中先生」  そう言って微笑する。見ていてこちらまでが幸せになるような春の陽だまりのような微笑だった。医局で耳に挟んだことを今は言わないでおこうと思う。この微笑をずっと見ていたかったので。 「医局のパソコンの調子が悪くて、今日の手術次第を確認しに僭越ながらこちらに参りました」 「ああ、それは全く構わない。で、彼女のことだが快諾してくれた。午前中の手術が終わる頃には例の物が届いているので、ゆ…田中先生が例の場所まで届けてください」 「了解しました。では手術室で」  そう言って早々と退散する。何といってもここには秘書の目がある。そんなに長居は出来ない。教授に背をむけて扉まで歩いたが、彼の視線は背中でずっと感じていた。

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