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第六章 第6話
タクシーに揺られながら、どうして彼がマンションの部屋に上げてくれなかったのかをぼんやりと考えていた。
が、彼の様子からして見られて困るような物や人が居るといった感じではなかった。ならば別に構わないのではないだろうか?
マンションの植え込みで着衣を脱ぐ方を選ぶ方が彼らしくない。羞恥心が強いのは分かっていたので。野外でのストリップの真似事を演じる方が余程危ないし、誰が通りかかるのか分からないので恥ずかしいハズだ。
普段の時だと彼は白状しないだろうから次の逢瀬の時にでも無理やり聞きだしてみようと不埒な決意をする。何としてもホテルでは白状させてみると。それはそれで楽しそうだ。
教授も自分も病院近くに部屋を借りていたのでタクシーは直ぐに自分のマンションに到着する。
祐樹のマンションは学生時代から住んでいる。教授のマンションとは違い、学生も住んでいるレベルのマンションだ。社会人となった今、収入から考えるともう少しランクの高い物件に引っ越すことも出来るのだが、専門書などが溜まりに溜まっている現状を考えると引っ越す手間や時間が惜しい。それに自分の勤務時間は長いのでこれ以上プライベートなことに時間を取られては寝るヒマも無くなってしまう。
時計は深夜を回っている。早く寝ないと手術中に集中力が途切れるかもしれない。
そう思って、パジャマ代わりのスエットに着替えてから学生の時から使っているベッドに倒れこんだ。
電気を消した部屋で脳裏に浮かぶのは先ほどの光景だった。恥じらいながらも潔い瞳をして着衣を脱いでいく彼の悩ましい姿…。興奮しては眠れないので、慌てて明日の手術のことに頭を切り替える。切り替えが早いのは自分達の職業病かもしれないな…と思いながら。
――術式が、殆ど同じで良かったな――
つくづくそう思う。今の段階では、香川教授の得意分野の手術が最優先されて患者さんも「香川術式」を望む症例ばかりだ。その内に狭心症だけではない手術の依頼が増えて来るだろう。何と言っても香川教授の専門は心臓外科で、狭心症の患者ばかりを手術するわけではないのだから…。
心臓バイパス術では香川教授は恐らく日本一だ。だが、大学病院という高度な施設には他の症例の患者さんも当然搬送されて来る。今のところ、手術希望の患者さんは、「バイパス術で高名な香川教授の執刀」を求めて集まった人ばかりだが、その内、彼の的確かつ迅速なメス捌きが評判になり、他の手術もこなすように成らざるを得ないだろう。
そんなことを考えていると、手術中の彼の繊細な手の動きが脳裏に蘇る。それを模倣して頭の中で再現し、実際に手を動かしてみる。
と、覚えていたのはここまでで、目覚まし時計の音で目が覚めた。
もうそんな時間か…と半覚醒の頭でぼんやりと思ったが、一昨日からそういえば色々有りすぎて、目まぐるしく日が過ぎていったので疲労が溜まっているのかも知れないな…と思う。
クリーニング屋から戻ってきた衣服に着替えて――このマンションは良心的でクリーニング屋でも宅急便でも管理人さんが預かっていてくれる――病院近くの喫茶店で一服がてら朝食を摂った。
朝食抜きだと体力がもたないだろうから。と、その時阿部師長が店の扉を開けたところだった。
そういえば、この喫茶店には以前、師長と来たことがあったな…と思い出す。
「お早うございます。夜勤明けですか?」
声を掛けるとキビキビした足取りで近寄ってきた。
「そう、夜勤明け。ここ座ってもいい?急いで食べてまた戦場に戻らなきゃ。」
「もちろんです。救急救命室は大変ですね」
祐樹の前に座った阿部師長はモーニングセットを注文し、煙草に火を点ける。
「それはそうと、昨夜はお願いを快諾して下さって有り難うございました」
頭を下げると、阿部師長は豪快に笑う。そしてそう広くもない店内を見渡してから安心したように言った。知った顔が居ないか確かめたのだろう。
「香川教授に恩を売っておけば、十倍返しくらいは期待出来そうだし…それに弁護士さんに会う機会なんてないから面白そうじゃない?」
十倍返しの中に当然自分も組み込まれているのだろうと悪寒がした。
救急救命室の忙しさは自分も手伝っていたので良く分かっている。彼女が強引に医師を集めるのも理解出来たが…あの地獄の日々が再現されるのかと思うとゲンナリする。
一時でも時間を無駄にしないという彼女は、左手に煙草、右手にトーストを持ったまま食事をしている。そのプロ根性には頭が下がるが…
「じゃ、午後の有給、私なりに楽しんでくるわ」
そう言って風のように立ち去った。勘定書きは、テーブルの上に置いたままだった…当然二人分の。
苦笑して勘定を支払った。きっとこれも彼女の協力への報酬の積りだろう。
ロッカーで着替えを済ませ、医局へ行く。早めに出勤したので人はまばらだろう。扉を開けかる。が、自分の名前が聞こえたような気がして動作を止める。
ただ小声で話しているので耳を澄まさないと聞こえない。
「田中も香川先生にベッタリのようだな…」
「香川先生をこれ以上のさばらせておくと、彼の権威が固まってしまう。これは由々しき事態だ」
「あれほど、手術ミスを誘発する手段を講じていたのに…成果は上がらない」
悔しげな声には聞き覚えがある。発言者がどちらかまでは分からないが、畑仲医局長と山本センセの声だった。
「その成果ですが…もう一度アクションを起こしておきましたので今度こそ…」
やはりこの二人かと思った。予測していたことなので驚きはなかった。
香川教授が手術に使いたがらなかった人間達だ。外科医として「無能」という烙印を押されたような気がしているのだろう。医局も追われるかと疑心暗鬼になっているのかも知れない。
が、手術ミスを誘導するなど、医師としては言語道断だ。怒りに任せてドアを開こうか?
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