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第六章 第24話
いつもの(と言っても香川教授の総回診は二度目だが)よりも早く終った。これは多分、周囲の先生や看護師は香川教授が昨日体調不良だと知っていたのでいつも以上に簡潔に報告を教授にしたからに違いない。
畑仲医局長や山本センセと同調しない先生が多いのはとても喜ばしい。柏木先生以外にも教授の味方は沢山居るという感触を得た。
ただ、やはり彼の病状は気になるので昼食を食べに病院の外に出る前に教授室に屋上からこっそり電話をかけた。
「ああ、田中先生か。患者さんの件なら」
秘書から通話を変わった教授はこういう言い方をした。これは周囲に人がいるという黙契だろう。
「そうです。黒木准教授に申し送りを受けていいですか?」
「…いや、実は先ほど、黒木先生から申し送りの書類は全て届けてもらっている。後で、教授室へ来て欲しいのだが」
「了解です。今お忙しいですか?」
「…ああ…・・・」
わずかに残念そうな気持ちが滲んだ口調のように聞こえた。
「お昼を誘おうと思ってましたが、諦めます。杉田弁護士に電話してみますね。その報告を持って部屋に行きます。昼御飯買って帰りましょうか?」
「いや、それには及ばない。では手が空いたらこちらから連絡するのでそのつもりで居て欲しい」
どうやら教授室には教授よりも偉い人間かそうでなければ同格の人間が来ているに違いない。
出会った頃ならいざ知らず、この頃の彼はあんな話し方をしない。何だかややこしそうな話が増えたのかも…と一瞬思ったが、彼の口から直接聞くまでは心配するのは止めようと判断した。
今までのトラブルだけでも頭が痛いのに、これ以上杞憂かもしれないことを考えていても仕方がない。
総回診の日は手術がないので楽だ。あちらの方の進捗状況を聞くため、杉田弁護士と携帯で話す積りだった。そのため、たまたますれ違った柏木先生の誘いを断る。その後白衣を脱いで病院から少し離れた、少々値が張る和食の店で食事をすることにした。
勤務医はそれ程給料が高くないので滅多にこの店には来ないし、看護師は時間に追われているので来ないという店だ。
それに店の全ての席が見渡せるので、万が一知っている顔が入って来たら通話を切れるという利点もある。
4月の桜の葉が翡翠色に輝いている並木道を一人ぶらぶらと歩いて店に着く。
席について定食を注文し、杉田弁護士の事務所に電話してみる。幸いなことに事務所に杉田弁護士は居た。挨拶もそこそこに切り出す。
祐樹の仕事は食べながら何かをするのは慣れている。今は食べているのを相手に悟られずに電話をしている。職業柄、手先は器用だが、それ以外も器用にこなす自信はある。
「星川看護師の件はどうなりましたか?」
「今は、問い合わせ中だ。こういうのは書面で到着するので数日は掛かるということは先に話した通りだ。
それ以上にいい知らせがある。あの銀行から全面協力を約束してもらったので、クレジット会社が作っている信用調査会社に、彼女のクレジットローンなどの信用情報と取引状況を知らせて貰えることになった。こちらも5日以内に返答がある」
話が進んでいる気がして安堵の溜め息が出る。
「人の命に関わることですから、なるべく早くお願いいたします」
「ああ、こちらも電話で催促もしている。内容証明は先方に到着したハズなので…」
「どうか宜しくお願い致します」
電話の向こうには見えるわけはなかったが姿勢を正して頼んだ。
「それはそうと…先生って既婚…でしたよね?」
絶句したような雰囲気が電話を通して感じられた。
「……いや、私は独身だが……?田中先生もその理由を知っているだろう?」
「えっ?確か、例の店で既婚と聞いたことがあるような気がしたのですが…?」
少しの間の沈黙がたゆたった。
「あの店で結婚の話が出たのは確か、田中先生と同席した時…連れがいただろう?司法試験を受かったら、司法研修生になる。研修生の同期で検事をしている『お仲間』の井澤検事をあの店に連れて行った時だけだ。彼は国家公務員なんで結婚しないと出世に関わる。私の仕事は自営業なので顧客がいれば既婚だろうと未婚だろうと関係ないからな…。井澤検事と混乱して覚えているのではないかと思うのだが…?」
「お仲間」にアクセントを置いた話し方だった。特に興味を抱いた男性ならともかくも、ゲイバーでいい話し相手「だけ」でそういう対象として眺めていない杉田弁護士のことを「既婚」だと思っていたのは…そういえば井澤とかいう新顔の客とも話していた時のことだった…かな?と思う。
祐樹はアルコールは弱い方では決してないが、当直などで疲労が蓄積してグレイスに行き、アルコールの作用でぼんやりしてしまう時もある。その時にでも聞き間違えたのだろう…。
「しかし、何でまた、私が既婚か未婚かを知りたがるのかが分からないな」
苦笑交じりの声だった。先程の星川看護師絡みの件の時とは違ったリラックスしたような…。
「それが…昨日先生の事務所にお邪魔した阿部師長が先生のことを気になさっていたので…。モチロン、そういう意味で、です」
「おっと…その話より先に香川教授は大丈夫なのかね?」
心の底から案じているのが分かる声音だった。
「…ええ、今日の総回診の時はお元気でしたよ。それに当分仕事時間外でも一緒に居るつもりです」
「それは、一安心だ…。『お大事に』と伝えてくれ。
阿部さんか…彼女は素晴らしい人間だな。並みの男よりも男らしい。ここだけの話だが、私があの店に通うのは、甘ったれた女や嬌声が耳障りな女が居ないからなんだ。もちろん、田中先生と同じような相手を一番目の恋愛対象として見ることは間違いないが。グレイトな女性は好きだ」
留学し、LAだったかNY州だったかは忘れたがそちらの弁護士資格を持っている杉田弁護士は電話越しに「グレイト」を流暢に発音した。どうやら秘書などは回りに居ないらしい。
「では、阿部師長にチャンスはないわけではないと?」
「先方がその気ならば…しかし、私の性癖を知った上で、理解があれば…という話になるが…」
どことなく面白がっているような口調だった。
「分かりました。それとなく聞いておきます」
「期待せずに待っているよ。それと星川看護師の件はこちらとしても急かしている最中だ。教授にはもう少しの我慢だと伝えてくれ」
電話の向こうで「杉田先生、お約束の~~様がいらっしゃいました」と女性の声がした。名前は良く聞き取れなかったが。
多分クライアントだろう。それを潮に電話を切った。
阿部師長と杉田弁護士…年齢的にもお似合いだが、杉田弁護士の性癖を明かすとなると何故知っているか絶対聞かれる。どうしたものか…と思った。通話が終るのと殆ど同時に定食を食べ終えた。煙草に火をつけてぼんやり考えていた。
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