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第七章 第1話
杉田弁護士との通話を切った後、阿部士師長にどういう風に説明するかを考えていた。
今日は教授総回診なので手術はない。本来ならば、夜間に救急救命室の仕事があるが、香川教授の介抱に当たるということでそちらは休ませて貰っていた。
阿部師長に直ぐにでも杉田弁護士の件を話しても良かったが、「何故祐樹がそんな個人の性癖を知っていたのか?」という当然の疑問がわくだろう。それに香川教授も絡んでくる。
祐樹1人の問題だったら、本当のことを言っても別に問題はない。どうせ、自分の性癖が万が一バレても仕方ないと思っていたのだから。法律に触れるようなことはしていないし、解雇理由にもならない。だが、教授はどうだろうか?
彼は異例中の異例の若さで教授になった。学内には敵も多そうだが、「令嬢と是非結婚させたい」という教授も多いと聞く、斉藤医学部長を筆頭にして。
煙草の煙が障子越しの春ののどかな光の中で円をいくつも描いていた。
そこで思い出したのだが、教授と祐樹は恋人同士でも何でもないということだ。今の段階では。
そういう交渉は一回切り。キスは何回かした。自分からも教授からも…。昨日は同じベッドで眠ることもした。しかし、「付き合おう」とか「好きだ」とかいう言葉は一切貰ってない。
普通、祐樹のような人種は、意思表示から始まる。思わせぶりな態度や携帯のメアド交換、その後、次のデートでは告白がなされる。
携帯のメアド交換の時に気の乗らない男性だった場合、メアドは教えない。相手も心得たもので、「拒絶されたな」と察し、それ以上のアプローチはしない。
教授と祐樹はどんな関係なのだろうか?
祐樹を嫌ってないことは分かる。ただ、「告白」はして貰っていない。メアドも教えて貰っていない。
彼の経験値が高くないのは分かったが、経験値が低いからといって安心は出来ない。
元カレと長い間付き合い、元カレの好きなセックス――カレの好きな風に、カレが殊更初心な反応を好んでいるのでそれに合わせて身体を動かす――を教え込まれた上で、何らかの行き違いがあって、別れてしまった…というのは?
教授の口からどう思っているのか聞きたい。それが祐樹の切実な願いだった。
杉田弁護士と阿部師長の件は今日も彼が来ると約束している、祐樹のマンションと呼ぶのは躊躇を感じる自宅で教授に話すつもりだった。2人で、大恩人である杉田弁護士と阿部師長の対策を練るのが良いだろう。
時計を見ると考えていた以上に時間が経っている。今日は回診で、しかも祐樹には受け持ち患者さんがいないので、結構昼間は暇だ。といっても雑用は山のようにあるが…。
帰り道で無駄になるかもしれないが…教授の昼御飯を購入した。朝食を彼にしては沢山食べたので、そんなに食べられないと判断して、サンドイッチを二つと、ラージサイズのジュースとコーヒーを一つずつ買って、病院に戻った。
白衣に着替え、自分の席に戻りパソコンのメールチェックだけしてから教授室に行こうと思っていた。すると柏木先生が深刻な顔をして寄って来た。祐樹が視線を上げると、指を動かし、「付いて来い」というジェスチャーをした。
こっそり医局から出ると、柏木先生の姿を探した。教授回診の時くらいしか使われない階段の隅に彼は佇んでいた。
「医局で小耳に挟んだのだが、香川教授の手術の手際が良くないと、他の外科の教授が、教授会で『吊るし上げ』を企んでいるそうだ…」
眉間にシワを寄せて柏木先生は言った。
「えっ。それは…?教授会で吊るし上げが行われるなんて聞いたことがないのですが…」
「今の大学病院は過渡期だ。ウチは元国立大学ではあるが、経営は独立採算制…。病院だってそうだ。香川教授はいわばウチも稼ぎ頭だ。だから嫉妬交じりの嫌がらせを企んでいる教授と、『しっかりしているかどうか確かめたい』という教授との利害が一致したのだろう。これからはどんどん従来は考えられなかった事態が起るだろう…な。
ところで、香川教授の容態はどうなんだ?」
昨日の手術に彼は居たので心配していたらしい。
「本当は入院を勧められましたが、自宅療養ということで・・・。こちらではなく、救急救命室から薬を持ち帰って…もちろん薬代は支払っていらっしゃいますよ…今日はかなりお元気そうでしたが、薬の作用かも知れません。しばらくは目を離さないでいるつもりです」
柏木先生は懸念5割安堵5割の顔をした。
「今、教授に倒れられたら難易度の高い手術が出来なくなる。くれぐれも教授の体調管理は気を遣ってくれ…といっても長岡先生も居るから大丈夫だとは思うが…」
柏木先生は長岡先生が教授のフィアンセであると思っているらしい。誤解を解くと話がまたややこしくなるので黙って曖昧に微笑む。
「患者さんのところに顔出ししなければ…」
そう言って柏木先生は慌しそうにその場を後にした。祐樹は机に戻り、買ってきた昼食の入ったコンビニの袋と取り出していると、医局長の畑中先生と山本センセが人目を盗んで会話をしている。おおかた教授の悪口だろうと、会釈もどきを投げかけてその場を去ろうとする。が、意外にも畑中先生が声を掛けてきた。
「教授に取り入っているようだね。その努力が無駄にならないか心配しているのだよ…」
これは忠告というよりも牽制だと思った。これ以上香川教授に近寄ってはためにならないという。
「外科医にとっては手技が上手な方は憧れです。私が拝見した限りでは、以前一番だと思っていた佐々木前教授よりも香川教授の方が素晴らしい腕を持たれています。そういう方の手術を拝見して自分も近づけるように勉強するのは臨床医として当たり前のことですから…。取り入ってなどいませんが、ご忠告有り難う御座います」
言外に「貴方達の手技は勉強には全くならない」という暗意を込めたが伝わったかどうかは分からない。
医局の電話が鳴った。近くに居た看護士が電話を取る。保留ボタンを押してから彼女は言った。
「田中先生、香川教授がお呼びです」
「すぐに参りますと伝えて下さい」
そう言って、医局を後にした。
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