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第七章 第2話

 もう通いなれてしまった教授室が集まるエリアの廊下を足早に通り抜け、香川教授の部屋の前で立ち止まった。  教授が呼んでいるのだし、2人の間の心も距離は少しずつでも近くなっているのは確かだと思うので、「入ります」だけの挨拶でも良いとは思う。が、一介の研修医の自分が馴れ馴れしくしていることが他の誰かの耳に入ったらコトだ。 「香川教授、お呼びと伺いまして参りました」  ノックと共にそう声を掛けた。 「田中君か入り給え」  彼も教授と研修医が交わすのに相応しい言葉使いをしている。 「失礼致します」  そう言って木製のドアを開けると彼は執務用デスクではなく、応接セットのソファーに力なく横になっていた。顔だけをこちらのほうに向けて、弱弱しい微笑を浮かべていた。  その儚げな笑みに不覚にも胸の鼓動が一つ大きく跳ねた。 「大丈夫ですか?秘書の方は?」 「ああ、大丈夫なのだが、流石に疲れた。秘書は昼食に行って貰っている…」  声が少し掠れ気味だ。そういえば、総回診の時はずっと担当医や患者さんと話していたな…と思い出す。   声を使いすぎたのだろう。 「私は食事をしながら杉田弁護士と電話で話していました。教授、昼食は召し上がりましたか?」 「いや、まだだが…食欲がない…」  そう言って力なく目を閉じる。 「何も胃に入れないとどうなるかは…ご存知ですよね…胃潰瘍のリスクが高まる」  少し強い口調で言って、先ほど買ってきたジュースを飲ませようとコップを探した。秘書のエリアであるコーヒーメーカー置きなどの辺りを探してみるが、コップが見つからない。ただ、ここはお作法教室ではない。祐樹の一番の希望は、教授の胃の中に何か食べ物を入れることだ。コップではなく、何故か有ったマグカップにジュースを注ぐ。そして教授が倒れこんでいるソファーに持って行った。 「ほら、ジュースだけでも飲んで下さい」 「一回、身体を倒すと…起きるのに力が必要で…身動きする…余力が…ない」  呟くような声だった。それに汗もかいているようだった。この五月の爽やかな日に。  貧血か…?と思う。それならより一層阿部師長から貰ってきた薬剤を摂取させなければならない。  口移しも考えたが、出来るだけ水分は補給していた方が良い。彼の頭と背中に腕を回してソファーに普通に座らせた。腕を離す直前、腕の力を強くして抱き締める。  彼はソファーに大人しく座っていたが、いつもは端然と座っているのに、今は辛そうに背もたれに凭れている。 「まず、ジュースを飲んで下さい。それから昼食を…教授がお倒れになったら、患者さんを筆頭に手術に関わる者、全てに迷惑を掛けるのですから…」  諭すように行った。彼は目を閉じるとマグカップの中のジュースを飲み干す。まだ残っているので新しく注ぎ足し、サンドイッチの封を開けた。 「これも食べないといけないか?」  少し哀願が混じった口調だった。本当に食欲がないのだろう…。どうすれば食べて貰えるだろうと考えた。 「一切れ以上召し上がることが出来たら、私が出来ることは何でもしますよ…?」  澄んだ瞳が祐樹の目を真っ直ぐに見詰める。 「本当に何でも?」  声までが真剣だったので、卑怯だとは思ったが逃げを打つことにした。 「ただし、私が出来ることにして下さいよ…。『子守唄を歌え』などはご要望に添えません」  苦笑して言う。実は歌は苦手だ。上手くなりたいと思ってはいるが。 「祐樹は歌が下手なのか?」  驚いたような感じで、教授は言った。 「ええ、苦手分野ですね」 「私もだ」  そう言って柔らかに微笑する。 「絶対、祐樹が出来ることをリクエストするから…聞いて欲しい」 「何ですか?」 「それは…帰ってから言う」 「出来ることでお願いしますね」  この流れで早く教授に食事を摂って欲しかったのでこれ以上は突っ込まず、サンドイッチを食べやすい大きさに手で千切り、口元に持っていった。  彼は素直に口に入れ、咀嚼している。その次はジュースの入ったマグカップを口元に近付ける。祐樹の掌ごとそれを包み込んだ教授は大人しく飲む。それを繰り返しているといつの間にかサンドイッチは全て教授の胃の中に収まった。 「では注射しますね」 「ああ」  阿部師長から貰ってきた薬液を処方に従って全部シリンジに入れ、彼の白い腕に注射する。  食べるという行為は病人にとっては意外なほどエネルギーを消耗するのは分かっていたので、全てが終ると、そっとソファーに横たわらせた。  彼は眠ってはいないようだが、目を閉じている。 「今日も祐樹の家に泊まらせて貰えるのだな?」 「ええ、その積りですが…」  少しは元気があるようなので、先ほど柏木先生から聞いた話を聞いてみることにした。

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