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第七章 第3話

「今、話しても大丈夫ですか?」 「ああ。」  経口薬とは違って注射はすぐに効く。…といっても、適切な薬を注射した場合だけなのは当たり前だが。 「総回診がつつがなく終わって良かったですね…ところで、柏木先生から聞いたのですが、他の外科教授が教授会で教授に事情聴取なさるというのは本当ですか?」  彼はあまり危惧していないのか、淡々と言った。 「本当だ。さっきまで呼吸器外科の教授や脳外科の教授…後はだれだったか…その他お歴歴がこの部屋に来られて色々と言っていたな…。年長者ばかりなので、余計に気を遣ってしまい、このザマだ…」  ソファーに横たわった自らの身体を見、情けなそうに言った。 「大丈夫なのですか?」 「ああ、そちらは祐樹に心配してもらうまでもなく、切り抜ける自信は有るから大丈夫だ」  静かだが確固たる口調だったので、祐樹としてもそれ以上は突っ込めない。が、心配だ。 「その自信は何か切り札でもお持ちでしょうか?」 「持っている。ちなみに、祐樹も知っているハズだ」  その言葉に、「自分が知っているものとは何か?」と疑問に思ったが、香川教授と関わってからいつもの倍以上で物事が起き、それに振り回されていたので記憶を探っても出て来ない。  ただ、教授がそう断言したので少しは安心した。 「教授会はいつですか?」 「明後日、金曜日の5時からだ」 ――ああ、また教授の心労が増える――と思ったが口には出せない。手術だけでもかなりの精神的負担が掛かっているのに、その上教授会まで…。  体調が悪い人間に、それ以上嫌なことは聞かせたくない。本来ならば、部屋を辞去して1人で休ませてやるべきだろう。 「今日の総回診は無事終わりましたから、教授は先に帰っていて下さい。と言っても部屋の鍵…医局のロッカールームの私物入れです。あ、そうか、念のために財布の中にもう一個あったかも…」  そう言ってポケットの中から財布を出し、使ったことのない古ぼけた(でも多分鍵としては使える)金属を応接机の上に置いた。  首をヘッドレストに掛けていた教授はその鍵をマジマジと見詰める。 「この鍵、随分年代モノなんだな…」  確かに、財布の中に入れっぱなしになっていたので金属面はくすんでいる。 「合鍵を使ったことはありませんから…引越しの時に鍵を二つ貰い、一つはいつも使用していますが、こちらは保険代わりに財布に入れっぱなしになっていたものですし…」 「ふーん、街にある『直ぐに合鍵作ります』みたいな店は使ったことがないのか?」 「ええ、ありませんね」 「そうか。これは預かっていても?」  許可を求めるような会話が終らないうちにくすんだ鍵は教授の手の中に消えた。先ほどの薬剤が効いたのか随分元気になったようだ。 「どうぞ。2人一緒に行動出来ないことも多いでしょうから、預けますよ」 「有り難う。それから使い立てして澄まないが、デスク上に祐樹に担当してもらう鈴木さんのカルテなど一式と黒木准教授の申し送りがあるので、目を通しておいてくれ」  パラパラ捲ると、病院ではお馴染みの電子カルテと共に、黒木准教授のムンテラ(病状説明)記録、そしてその一番上には香川教授の所見とサインが有った。教授所見欄も詳しく書いてある。 「教授、鈴木さんを私が担当することはいつ決められたのですか?」 「今日、回診時に決めた。比較的病状が軽いこと、もしかしたら長岡先生お得意の手術を前提にした内科的アタックで手術自体を避けられるかもしれない患者さんだ。そうなると、内科の医師とも相談しなければならなくなる。祐樹はずっと佐々木心臓外科に居ると聞いているので連携は出来るだろう?  救急救命室に行って、どう思った?」 「時間が比較的決まっている心臓外科手術と違って、見る症例もその度ごとに違いますので、とても勉強になりました」  その分、寝不足で死にそうになりましたがね…と笑って付け加える。  何故かその笑顔を眩しげに見詰めている。綺麗な瞳が祐樹の視線と絡み合う。といっても会話が会話だけに色っぽい雰囲気にはならないのが残念だ。 「私は心臓外科医として少し有名になってしまったが、本当は若い間に色々な科を回って見聞を広めたほうが良い。鈴木さんは『手術もやむなし』と外科病棟に入院しているが、本当に手術が必要なのかを含めて祐樹が検討してくれれば嬉しい」  その言葉には驚いた。香川教授は心臓バイバス術の世界的権威で、手術至上主義者だと勝手に思っていたからだ。  それに何より、体調も悪い中、黒木准教授に申し送り書を書かせ、それを土台に自分の所見を書いてくれるとは…。そのせいで体調が悪くなったのではないか…とあらぬ疑いまで掛けてしまう。 「手術以外にも、選択肢を考えるのですか?」 「ああ、私がアメリカでも日本でも手掛けて来た患者さんは手術以外の選択肢のない患者さんだった。だが、手術というのは――こんなことは祐樹には釈迦に説法だろうが――人工的に患者さんに怪我を負わせるという側面もある。出来れば内科的アプローチで治せるものなら治したい」  香川教授は、本当に患者さんのために考えているのだな…と思った。視野が広い人なのだと。 「その書類の中に、内科病棟に入院していた時の主治医が書いてあるので、その先生にも会いに行って議論すればいい」 「分かりました」 「もう、教授は急ぎのお仕事ありませんよね?」 「ああ、殆ど終った」 「では、私のマンションに先に行ってて下さい。私もなるべく早く帰宅します。阿部師長に薬を貰ってから。  あ、帰りはタクシーで帰って下さいね。」 「しかし、家の主が帰宅していないのに、私が勝手に上がりこむというのは…」  遠慮がちに呟いた彼の唇の色に見惚れる。 「気にしないでください。教授に見られて困るものは何もないです。  あ、出来れば預金通帳は見ないで欲しいです。預金金額が恥ずかしいので…。  それ以外は冷蔵庫だろうと押入れだろうと何でも見てもらって構いませんから…。シーツの洗濯を忘れてました。押入れの中に新しいのが仕舞ってあるハズですから、帰宅してシーツが気持ち悪ければ替えて下さい。替える元気がなければ、浴室にバスタオルがありますから、それを敷いて横になっていて下さい。絶対に安静にしておいて下さいね。  夕食は、得意ではありませんが、何か作りますよ。お口に合うといいのですが…。  他に仕事は残っていませんか?」  言葉の奔流に流されて面食らっているのだろうか?教授は口を挟まず頷くだけだった。 「仕事は大丈夫だ…」  ポツリと言う。 「なら、家に帰って下さい。私もなるべく早く帰りますので。歩けますか?」  最後のセリフはソファーから起き上がった教授に向けてのものだった。 「少し、フラつくが、大丈夫だ。では、早退させてもらうことにする」  帰る準備をするために部屋を歩く彼を見て、ムリに付き添うレベルの容態ではないな…と思った。 「祐樹の部屋で待っているから…」  そういい残し、教授は自らが施錠した教授室の前で祐樹と別れた。

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