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第七章 第4話
香川教授室の扉の前に立ち、エレベーターホールへとゆっくりと歩いていく教授を見詰めていた。
この階は教授室しかないフロアなので人通りは稀だ。祐樹が教授を見送っている間も猫の仔一匹通らなかった――猫が医学部の教授階にいるかは別問題として――。
教授は少し足元が覚束ないような感じだったが、知らない人が見れば普通に歩いていると判断したに違いない。白衣の裾を翻して前だけを向いて歩いていった。エレベーターホールに曲がるために教授の姿が消えると、祐樹の胸に寂寥感がこみ上げた。
――他人がいないのだから振り返って微笑ってくれればいいのに――
自分でも駄々っ子めいた気持ちだとは分かっているのだが、やはり寂しかった。
そんな気持ちを振り切ってエレベーターホールで先ほど教授に渡された書類を改めて読み始める。医局の自分のデスクで読んでも良かったのだが、畑中医局長や山本助手の目が煩わしかった。それにここ居てエレベーターが上がって来たら――それは誰か教授か秘書が上がってくる合図だ――下に向かうボタンを押せば良いことなのでそれまでは結構落ち着く。
――内科の担当医 内田先生――
患者の鈴木さんと話す前に彼に会っておこうと思った。教授のサインの上に自分の唇をそっと重ねてから、下の階に向かった。自分の医局に寄って教授の早退を関係各所に伝える。彼の体調不良は昨日から伝わっているらしく詳しく聞かれることはなかった。
医局の部屋の中で一番偉いのは畑仲先生だ。反香川派の筆頭。その腰ぎんちゃくが山本センセ。
教授がアメリカから来る前は黒木准教授も消極的な反対派に回っていたようだが、教授の手技を見るにつけ、年齢は遥かに下の彼の部下として働く気になったようだ。
医局には畑中先生がいたので、祐樹にとって居心地が悪いことおびただしい。すっかり親香川派とレッテルを貼られているのだから。ちらちらと視線を非友好的な視線を感じる。
医局に居ても自分には情報などは回ってこないことは分かりきっている。それならば、自分の居ないところで存分に香川教授の悪口でも言えばいいと思った。聞き捨てならないウワサは、自分などよりも上手く医局を泳ぎ回っている柏木先生が教えてくれるだろう。
彼は口こそ重いが、患者さんの不利益になることは絶対にしないし、そんな動きがあれば教えてくれるハズだ。
医局での最後の仕事として、内科の内田先生に内線電話をかけてみた。肩書きは講師だった。
ナースらしい女性が電話に答える。名前と所属を伝えた。
「内田先生はただ今、外来患者さんを診ておられます」
――ああ、この時間は外来診察か――
「何時頃終わられますか?」
「今日は少ないですので、4時頃には終るかと…」
「分かりました。お手数ですが、診療後にご相談したいことがありますのでお手すきかどうか分かりますか?」
「はい。特にご予定はありませんので…アポイントメントをお取りしておきます」
「宜しくお願いします」
さて、それまでの時間どうやって過ごそうか…?と思った。教授回診の日は手術も組まれていないし、教授から治療方針にダメ出しを食らった医師は必死で今後の診療予定をレポート用紙に書いている。が、祐樹は担当患者が1人、しかも今日からなので今のところは他人事だ。あくまでも「今のところは」だが。手伝えるものならそうしたいが、祐樹の立場はまだ「研修医」だ。ヒヨっ子の自分に手伝えるとも思えない。
大学病院は365日、24時間稼動している。外来など昼間が忙しい科もあれば、祐樹が属する心臓外科のように手術の日が一番忙しく、その合間に担当している入院患者さんを診るという科もある。救急救命室は、昼間よりも夜間が忙しい。
祐樹は教授のことが気になるので何が有っても定時に帰宅する積りだった。それまで救急救命室に行ってみようと思いついた。
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