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第七章 第5話
救急救命室に行くと扉の前でツイ中の様子を窺ってしまう。特に今日のように次に予定が有る場合は。
急患は疾風のようにやって来て、しかもナゼか重なってやって来て暴風雨のように救急救命室をかき回す。その後ある患者さんはICU病棟に収まり、ある方は残念なことに患者死亡で地下の遺体安置室に行く。忙しい時は時間を忘れて治療しなければいけないし「時間が来たので帰ります」などと能天気なことも言えない雰囲気なのは当たり前だ。
ここは病院の最前線なのだから。重なる時は怒涛のように患者さんが重なり全てを犠牲にしなければならない。
いつもなら、徹夜覚悟でこの扉をくぐるが今日は内田講師とのアポイントメントもある。手伝うことにやぶさかではないが、4時半までにはここを脱出しないといけない。
こちらから他科の講師にアポイントメントを取っていて遅れるのは非常にマズい。
ツイていたと言うべきか、扉の向こうからは切迫した雰囲気は感じられなかった。室内に入ると、阿部師長が血まみれの白衣のまま満足そうに笑っていた。
「田中先生じゃない?遅かったのね。もし一時間前に来ていたら大たい骨骨折の整復をお願いするとこだったのだけど。バイクの自損事故で、重態だった。でも大丈夫、処置が早かったから助かったけどね」
来なくて良かった…と思った。別に骨折患者の骨を元通りにする「整復」は得意分野の一つとなってしまっていたが、これも香川教授の差配でこちらに出入りするようになってから実践的に覚えたものだ。心臓外科に入局してからは心臓しか治療対象ではなかったので他の外科治療の実践はしていない。が、これは、どの医師も同じことだろう。ただ、専門化されればされるほど、他の科では当たり前の医療を知らない可能性が出てくる。
きっと香川教授がココに無理やり放り込んだり、今日は内科の内田講師と会うようにと言ったりしたのも祐樹に医師としての見聞を広げさせるためなのだろうと思った。
救急救命室は、わずかなまどろみの時間に入ったようだ。
「ちょっと待っていてね。着替えてくるから。これじゃ血まみれ…」
師長が専用に使っている部屋に消えると、祐樹は早速情報収集にかかった。といっても、先ほどの医局での重い話題ではなく、ごくごく軽い話題だ。
顔見知りのナース――名前は忘れてしまった。ちなみに、祐樹は患者さんの名前と同僚の名前、そして好きな男性の名前は一回で覚えるが、ナースの名前は関心がないのでスグに記憶のゴミ箱行きだ――を手招きする。妙齢の彼女は頬を赤らめて近くに寄って来た。
「少し、聞きたいことがあるんですけど?」
周りに人が居ない薬品棚の方に誘った。彼女は頬を清楚な桃色に染めて付いてくる。
「阿部師長のことなんですけど…結婚してなかったですよね、確か?」
彼女の頬がすっと白くなるのは何故だろうと思いながら質問の答えを待つ。
「ええ、ご結婚はされていないです。師長はほとんどこの部屋にいらっしゃいますし、異性との接触は先生のような医師か、重態で意識不明の患者さんばかりですから」
「ほとんどこの部屋に居るということは恋人も居ないということでしょうか」
何故かうなだれてしまった彼女をピンと来たけれども・・・今の祐樹にとって最大の関心事は「阿部師長に配偶者または恋人がいるか?」だったので、気にせずに話を続ける。
「多分いらっしゃらないと思います。急にお休みを取られたりすることは皆無でしたから。以前、忌引き休暇を取られたのが師長の最後の休暇願いだと記憶しています。あ、そうそう、それから最近午後休暇を申し出られたことがあって…この部屋の皆は驚きましたが」
――午後休暇…それは杉田弁護士の所に行く日だったのだろうか?――
「その日は、ウチの科の長岡先生が怪我をした日ですか?」
「はい、そうです。長岡先生のあんなかすり傷、ココで治療するいわれはなかったのですが、師長の鶴の一声で…」
悔しさを滲ませた声で言った。女性から見ると、知性といい美貌といい長岡先生は服といい、装飾品といい嫉妬心を煽るのだろう。
中身はとんでもなくズレているが…。
「田中先生。お待たせ」
真っ白な白衣とナースキャップ。ナースキャップには黒い線が一本。師長の印だ。
「話は香川教授のこと?」
救急救命室に秘密は存在しない。神…もしかしたら悪魔かも…のように恐れられている阿部師長に反旗を翻す度胸のある者はナースにはもちろんのこと医師にだって居ない。
「それもありますが、出来れば二人だけで話したいのです」
「喫茶店に行って話そうか?私のカンだと救急車は来ないと思うし」
――はい――と言い掛けて、内田講師とのアポイントメントを思い出す。彼は内科医だ。教授の検査結果を見てもらって専門医の意見を仰いだ方が良い。救急救命医に診せるだけでは心許無い。他ならぬ教授の容態は専門医に相談したい。香川教授だって専門は外科なのだから…。
「喫茶店は賛成ですが、その前に香川教授の検査結果の用紙を全部見せて頂けますか?」
「そんなのお安い御用だわよ。有り難い自費患者様の検査結果はきちんと揃っている。けれども持ち出し禁止」
数枚に亘る用紙の数値を全て記憶する。これも救急救命室で学んだことだ。生きるか死ぬか一刻を争う患者の数値をいちいち資料を見ていては、助かる人間も助からない。
「覚えました。では喫茶店に行きましょう」
「あら?暗記が早くなったわね。以前は五分くらいだったのに…。ま、いいか。何か有ったら携帯を鳴らして」
室内の誰にともなくそう言うと、白衣の上からカーディガンを羽織り、外に出た。
「いつものお店でいい?」
今の時間なら混んでないし、同業者もいないだろうと同意した。
席に座るなり、師長は煙草を取り出した。火を点けて美味しそうに煙を吸い込む。
「師長は、独身主義者なのですか?」
「え?違うわよ?貰い手がないから結果として独身。結婚願望…昔は人並には有ったけどこんな滅茶苦茶な勤務に理解を示してくれる男性なんてそうそういないわよ。もしかして田中先生が立候補してくれるの?」
最後の発言は聞こえなかったフリをした。
「もし、理解を示してくれる男性が居たら、どうしますか?考慮の余地はありますか?」
外堀から埋めるつもりでいたが、救急救命室のヌシはまどろっこしいことが嫌いだということを忘れていた。
「田中先生、結局何が言いたいの?」
何となく怖いと学校で評判の先生を怒らせてしまった生徒の気分になった。単刀直入に言わなければもっと怒るぞという雰囲気がひしひしと伝わってくる。差しさわりのないことは全て話そうと思った。
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