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第七章 第6話

「杉田弁護士も独身なんです。そして、師長に興味を持った。杉田先生は医療関係の弁護も多数引き受けていて、師長の勤務実態についても多分ご存知でしょう。良い組み合わせだと思うのですが…しかし…重大な問題が…」  先ほどの怒りは雲散霧消したようだった。  師長は水分が充分行き渡ってない白バラのように首をうなだれた。続きを話しかけたが、こんなしおらしい阿部師長は初めて見た。あまりの意外さに話が途中で尻すぼみになってしまう。 「杉田先生があたしのことを?・・・それはとても光栄だわね。私も嬉しい・・・まさかこの年になって…」  首を下にしたのは表情を読まれないためかと推測した。中年の恋は色々ややこしいのかもしれないな…思った瞬間、パッと顔を上げた。目つきが真剣だ。今度はDOA患者に対するような挑戦的な瞳。「この世に引き戻してやる」と決意に満ちた彼女はこんな瞳をしていたものだった。 「田中先生『しかし・・・重大な問題』って何?」  流石百戦錬磨の阿部師長、上手い話だけ都合よく受け取ってホケホケと能天気に喜ぶ人間ではなかったと思う。  祐樹は腹を括って話し出した。 「先に言って置きますが、私はここを4時過ぎには出ないといけません。そして、その後約束があるので、今日は救急救命室のお手伝いは出来ません」 「やーね。香川教授の看病をする人間を救急救命室に束縛したりはしないわよ」  祐樹も煙草をポケットから出し、火を点けた。これから話すことは煙草なしには話せない。煙草は「百害有って一利なし」と言われているが、精神を沈静化させる効果はある。 「阿部師長、救急救命室では要点をまとめて言わなければなりませんが、この問題は少し込み入っているので…からめ手からご質問します」 「いいわよ。プライベートな話だし…ね」 「師長は性的逸脱についてどう思われますか?」 「ロリコンとかSMとかそういうヤツのこと?」  何でこんな質問をされるか全く分からないと言った顔で答えた。 「まあ、そういう類のことです」 「ロリコンは犯罪だからダメ。SMは当事者同士が良いのなら良いんじゃない?まあ、度が過ぎて怪我をさせたりしてウチの病院に運ばれてくるのは迷惑だけど…」 「要は当人達が良ければ良い…ということですか?」 「そうね。」 「では、同性愛は?」 「それも他人に迷惑をかけなければ良いんじゃない?」  祐樹が何を聞きたいのか分からない…という怪訝な顔をしている。 「男性の同性愛者は二つに分かれます。男性しか恋愛対象にしかならないタイプと、両性を恋愛対象にする人間…」 「つまり杉田弁護士は後者なのね」  さすがは、阿部師長、察しがいい。 「そうです。もし、師長と結婚しても、もしかしたら男性を好きになるかもしれない。といってもあの人は恋多き人間だと聞いたことは有りませんが…」  阿部師長の目がきらりと光る。 「田中先生は良くご存知ね。…もしかして…」  流石の阿部師長もそれ以上は口に出して言えないようだった。 「私も杉田弁護士と同じですよ…」 「そうなんだ。この際、田中先生のことは置いておいて、杉田弁護士はとっかえひっかえの恋愛には無縁だったってこと?」 「ええ、私たちが集まる店は同じ性癖を持った者同士が集まって静かに飲むといった場所で、もちろん、店で意気投合した人間同士だったらカップルとしてどこかに消えて行きます。私はその店に通って長いですが、杉田弁護士がそんな消え方をしたのを見たことがありません」  阿部師長は、火を点けたばかりの煙草を手には持っていたが吸うことなく何かを考えている。煙草が灰になり、フィルター近くまで火が迫った時に言った。 「あたしの同期でね、開業医と結婚した人がいた。開業医ってやり方によったら儲かるののよね。その人は女をとっかえひっかえして遊んでいる旦那に泣いてた。何でも愛人に自分の家族名義のクレジットカードを持たせてね・・・一番酷いときは愛人が一日で200万ものブランド品を買ったとか。そういう心配だけはしなくていいのね?」 「杉田弁護士は誠実な方だと思いますよ。でも、旦那様候補が同性愛者というのは結婚を躊躇する材料では?」  杉田の服装を思い浮かべる。これ見よがしなブランド品を持っているわけではないし、時計も確か国産だ。手帳だけは確か海外ブランド品だったが、「何故この手帳を?」といつかは忘れたが話の流れで聞いたことがある。答えは「私のような時間に追われる仕事をしているとこの手帳が一番使いやすいからだ」と答えていたことを思い出す。 「あたしに怖いものなんてない。怖いのは目の前で息をしなくなった患者さんだけ。それに比べれば杉田弁護士の性倒錯の資質を持っていようと、あたしが好きならそれでいい。」  ほんのり笑った後そう言って腕時計を見る。 「4時までまだ間があるわね。で、田中先生は杉田弁護士とは随分長い付き合いみたいだけど、そういう店で知り合ったのかしら?」 「…誰にも言わないと約束して貰えますか?」 「この商売は口が固くなくては務まらない。それにあたしはウワサ話をする趣味もない。だから誰にも言わないと約束する」  一度深呼吸をして、一気に言った。 「私も杉田弁護士と同じ性癖の持ち主です。ただし、杉田弁護士と違って少しは遊ぶタイプかも知れませんが」  コツコツと水の入ったコップの縁を弾いていた阿部士長は思いついたように尋ねた。 「今、田中先生のところに香川教授が泊っているのよね?彼は田中先生の性癖を知っているの?」

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