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第七章 第7話
「ええ、ご存知ですよ」
「ならいいわ。知らなかったらコトだと思っただけだから」
自分は阿部師長にカムアウトしたが、香川教授の性癖を隠蔽するのに成功したようだ。
まぁ、普通の感覚としてゲイがたくさん居るとは思いもしないに違いないのだが。
香川教授も彼女を信頼しているようだ。しかし、祐樹の一存で彼のプライバシーまで明かすことは出来ない。
さすがは、医師も怒鳴り飛ばせる胆力の持ち主だ。度胸は並みの男性よりも据わっている。
「そろそろ、田中先生は次のアポがあるんだっけね。香川教授の薬一式を用意してあるからウチに寄って」
祐樹の性癖をカムアウトしても態度は全く変わらない。やはりこの人は大した女性だと思った。
救急救命室でカンフルや注射や薬剤を受け取り、内田講師の部屋を訪ねた。
年は40代か。穏やかな目をした内科医に相応しい優しげな人物だった。簡単な自己紹介から会話を始めた。
「そちらから送られてきた鈴木さんの件でお伺いしたいことがありまして。上司は『手術を視野に入れながらも、内科的アタックで完治とまでは行かなくても日常生活くらいは自分で出来る程度に回復するのではないか』との所見でした」
柔和な目がさらに優しげになった。
「私も実際のところ外科手術をするか、それともウチでとことんまで診るか迷っていました。今の心臓外科は香川教授ですね。切るのではないかと危惧していたのですが…」
切るとは手術の隠語だ。
「いえ、こちらにお邪魔したのは香川教授の指示です。『私は今まで手術しか選択肢がない患者さんばかりを担当してきたので手術せざるを得なかったが、それ以外の道があるなら全ては患者さんのためになるようにする方が良い』というようなことを申しておりました」
内田は笑みを浮かべた。それも心からの笑みだろうと見る者に思わせるような。
「では香川教授に申し上げて下さい。『そちらには長岡先生という立派な内科医がいらっしゃるようですが…鈴木さんの件については私にも意見具申を許して欲しいです』と。
香川教授は手術至上主義というわけではないのですね。鈴木さんは、香川教授の前任者である佐々木教授の時に手術が必要との診断を頂いて外科に転科しました。本人も手術を嫌がっているとナースが小耳に挟んだと聞いて少し不安だったのですよ。医師よりもナースに本心を漏らす患者さんも大勢いますから…。私も鈴木さんの病室へお伺いしてもいいですか?」
「それはもちろん。担当医は私ですから」
「それは有り難い。感謝しますよ。病院の縦割りには常々不満を持っていましてね。独立行政法人になったというのにお役所みたいだ。もはや我々は公務員でもないのですがね」
彼も患者さん第一に考える医師なのだと思った。この人なら信頼に値する。
「ところで、先生。先生は患者さんのデータを見て大体の病状は分かりますよね?」
「もちろんです。補足説明が入っていればもっと精度が上がりますが」
「29歳男性のデータです。赤血球の数値はこれこれ。血圧は…」
先ほど救急救命室で記憶したデータを全て言った。ついでに借りてきたレントゲン写真も見せた。
「発熱は?」
「平熱だそうです」
「詳しく検査してみないと100%断言は出来ませんが、それらのデータからは90%の確率で『疲労性貧血』と診たてます。ゆっくり休んで鉄分の多いものを食べさせればスグに治る病気だと思いますよ。肝臓にも危険な兆候は出ていませんし」
「会社が休めず、――今は病院でも破綻する時代ですからね――ムリを押して出社しなければならない時はどうすればいいですか?」
「栄養のある食べ物を食欲がなくても食べて、造血剤を飲んで点滴などで不足した栄養分を摂取することと、眠れる時は思いっきり眠る。そして、いくら会社が忙しくても休憩時間はあるでしょう?その時には会社の医務室ででも安静にして眠ることです。」
「有り難うございます。個人的な質問に答えて頂いて」
「いやいや。専門だから何ということもないです。また鈴木さんのことを聞かせて下さい」
物腰も柔らかに椅子から立ち上がる。握手して別れた。握手を好むとは留学経験でもあるのかもしれない。
内田講師と別れ、右手には阿部師長が持たせてくれたアンプルや薬などが入っている大きな袋を持って「栄養の付く食べ物を食べさせなければならない」という内田医師のアドバイスを噛み締めていた。
あいにく祐樹の部屋にはロクな調理用具がない。コンビニエンスストアに行けば惣菜やレトルトのお粥などが売っているのは知っているが、病人向けの栄養のある食べ物とは言いがたい。
途方にくれていると、ふと天啓が閃いた。1年前、病院職員向けクリスマスパーティの余興でビンゴが開催された。祐樹は見事一等に当選したのだが、賞品は既婚者が多いパーティということもあって祐樹には一生縁がないと思われた「しゃぶしゃぶ用の鍋一式セット」だった。持って帰ろうにもかさばる。忌忌しい思いも手伝ってどこぞに捨ててこようと思ったものだったが。生来の貧乏性が災いし結局は自宅に持ち帰った。あれが押入れの奥で眠っているハズ、自分の記憶に間違いがなければ。
香川教授は見た目こそ食べ物にうるさい感じだが、実はそうでないことを知っている。
しゃぶしゃぶ用の鍋に鉄分の多いレバーを入れても文句は言わないハズだ。豆腐や牛肉や野菜なども買って帰ろうと思った。
スーパーがどこにあるか正確には把握していなかったので――コンビニなら把握しているが――繁華街までタクシーで出て百貨店の食材売り場に向かった。百貨店なら品揃えは豊富なハズだ。
が、誤算が一つ有った。夕食前に食材を買いに来るのが家庭の主婦だということだ。祐樹は女性も好きだが、中年以上のババ…いや、もとい中年以上のご婦人方は血相を変えた物凄い勢いで目当ての食材を一円でも安く買おうとしているのには正直恐怖を感じた。
「さっき、これを買おうとカゴに入れてしばらくすると、半額の表示が貼られたわ。私のも半額にして頂戴」
などと怒鳴っている。そのパワフルさに負けた。コンビニでは絶対見かけない光景だ。
それでも、これも教授の身体のためだと思い直し、人ゴミの少ない、いわゆる高級食材の肉屋さんや八百屋さんで目当てのものを購入する。忘れずに調味料も買った。と言っても、「これ一本でしゃぶしゃぶ作れます」とか「寄せ鍋はこれ一本」などの類だったが。
中年女性の熱気と香水の匂いで頭がおかしくなりそうだったが、忘れずに塩・胡椒・砂糖などを忘れなかった。これは自分で自分を褒めてやりたかった。
各種香水と汗の入り混じった臭いに疲れ果ててしまった祐樹は、迷わずにタクシーに乗り――荷物が多いせいも多分に有ったが――自宅マンションへと向かった。
フト見上げると自分の部屋に灯りが点いている。ただそれだけでそれだけのことで幸せを感じた。部屋の明かりが点いているのは初めてだったので。
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