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第七章 第8話
自分のマンションとはいえ、香川教授がいるのだから鍵を開けるのではなくドアチャイムを押し、通話口に耳を近づけた。
最新のマンションなら自動ロックなのでこういう手間は必要ないが、祐樹の住んでいる部屋は年期が入っており今でもドアチャイムを鳴らして返答を待つシステムだ。
タクシーから苦心惨憺して降ろした荷物が掌に食い込む。我慢して待つが返答はない。
――とても気分が悪くて返答どころではないのでは?または、他人の家なので返答を躊躇っているのでは?――
そう思い、「今、帰りました。もう少ししたら鍵を開けますよ」
そう大声で言うとすぐにドアが開いた。こうやって誰かに出迎えられるのも初めてだ。背後の明かりと目の前の教授がやけに眩しい。
「ただ今帰りました」
そう言って彼の様子を窺う。病院で別れた時よりも元気そうだった。
形ばかりの玄関口で顔を合わせた。彼は表情の選択に困り果てたような顔をしている。
「こういう場合は、『お帰りなさい』で良いのか?よく分からない」
彼らしい律儀な言葉に笑みを誘われる。
「ええ、お帰りなさいと言って戴ければ嬉しいです。お加減は如何ですか?」
彼は病院では見せたことのない儚げで気弱な感じの微笑を浮かべた。
「お帰りなさい」
その表情と殊勝な挨拶に愛おしさが募り、キスをしたくなるが、あいにく両手は重くかさばる荷物で占領されている。せめて片手が自由だったら、頭を固定させてじっくりとキスが出来るのに…と残念だった。両手が使えないと上手なキスが出来ない。沽券にかけても頭の芯までとろけるようなキスを送りたかったので断念した。
「ただ今戻りました。お加減は如何ですか?」
そう言うと彼は笑顔を浮かべた。幾分照れくさそうな、ただしとても綺麗な笑顔だった。祐樹も微笑している自覚はある。
「病院から帰宅途中でかなり良くなった。ただ時々調子が悪くなるのでベッドを借りている。それからシャワーも借りたが良かったか?」
話しながらキッチンスペースに移動して重い荷物をやっと置いた。両掌は重さのせいで痺れが来ている。
そういえば、教授の髪の毛が少し濡れている。職場ではジェルか何かで前髪を少し上げているので年よりも少し上に見えたものだ。が、今はシャンプーしたままの髪をタオルドライしただけらしく前髪が全部下りていて実年齢よりも下に見える。
「もちろんかまいませんよ。でも、その服に見覚えがないのですが…」
「ああ、流石に下着まで借りるのもどうかと思って、タクシーに遠回りをしてもらい、百貨店に行って当座必要な服を買った。本当はベッドシーツも買おうと思ったが、上の階に上がる元気がなかった…」
悠長にそんなことをしていいのか?この病人…?と思ったが口には出さなかった。病中にも関わらず祐樹に手間をかけさせないでいようという気持ちだけは分かったので。確かに百貨店では衣服売り場よりも上階に家具や寝具売り場が有ったな…とおぼろげな記憶を呼び起こす。
「祐樹こそ、その百貨店の紙袋は何だ?ずいぶん大荷物だな…」
前髪は下りている上に、半袖の青いTシャツに同じく青い八分丈のジャージのせいで若々しく見える。昨日よりは大分元気そうなので尚更。
「今日は教授が帰られてから色々ありました。教授の体調を考えながら報告しますが、担当医にして下さった鈴木さん、覚えていらっしゃいますよね」
押入れの中を物色しながら聞いた。教授は台所スペースの椅子に座って、興味深そうに祐樹の行動を見ている。
「もちろん覚えている。それが?」
「鈴木さんが内科病棟に入院中に担当医だった内田講師にお会いしてきました。もちろん、鈴木さんの件がメインでしたが…教授の病状を伝えて診断を貰ってきました」
押入れの奥にダンボールが有った。これに違いない。周囲のスペースを空けてから取り出す。
「内田講師は熱心で良い内科医ですね。教授のデータを言うと『多分、過労性貧血だろう』とのことです。治療法は阿部師長から買っている薬剤と食事が決め手のようです。なので、貧血に良いという食材を購入して来ました」
それまでは祐樹の行動を目で追っていた教授だったが、その言葉を聞いて驚いたように目を見開く。
「もしかして、これは食べ物の袋なのか?」
百貨店ではそこいらのスーパーのように食材をむき出しにはしない。紙袋の上に薄い紙を被せて中身を見せないように工夫している。だから祐樹が言うまで教授は気付かなかったのだろう。
「ええ、貧血にはレバーが一番良いと思いましたので買ってきました。その他にも色々と…。ただし、私は自炊をしたことがないので、無事作れるかどうか自信が全くないのですが…」
「…」
少し長い沈黙があった。料理は初めてだと告白したせいで、その料理を食べさせられる恐怖と戦っているのか。あるいは、気分でも悪いのかと思い、押入れの前でダンボールの箱を開けていた祐樹は教授が座っている台所スペースに近寄った。
顔色は普通だったので安堵する。覗き込んだ祐樹は教授の瞳を見て絶句した。涙の雫にはなっていないが、明らかに涙腺から水分が過剰に分泌されている、潤んだ瞳だった。
体調のせいで情緒不安定になっているのかと思う。
顔は驚きと喜びが半分半分の表情のようだった。敢えて気軽な調子で声をかける。
「嫌いなものは有りませんか?」
「・・・特にはないが…」
「ほうれん草とかレバーとかを召し上がって戴くのが本日の目標です。ただし、ウチにはロクな調理道具がないもので…以前ビンゴの賞品で貰ったしゃぶしゃぶ鍋を使って、季節外れの鍋にしようかと思いまして。ほうれん草とかレバーとかは大丈夫ですか?」
ダンボールの中に入っていたしゃぶしゃぶ鍋セット一式を持って台所に持って来た、
「ああ、食べられる。好き嫌いは特にない」
「では作りますね」
「手伝おうか?」
「病人は大人しく座っていてください。ホントならベッドで休んで居る方が良いと思うのですが…出来たらお呼びしますよ」
「いや、こちらに帰って来てからも少しは休んだし、本当に大丈夫なんだ。だからここで見ている」
言い募る教授の意思を変えるのは難しいことも知っている。
「では、そこで見ていて下さい。野菜や肉を切るだけですから…スグに出来ると思います」
そう言って背中に彼の視線を感じながら野菜を紙袋から出した。
本当にしゃぶしゃぶモドキが作れるのだろうかと自分でもドキドキしながら…。
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