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第七章 第9話
買ってきた食材を切る包丁がまずないことに気付く。時々ドラマなどで主婦が使っている大きな包丁が祐樹の部屋にはない。そもそも包丁のことまで頭が回らなかったのは中年女性の熱気と香水の臭いのせいに違いないと責任転嫁をする。
キッチンスペースにあるのは果物ナイフよりも少し大きな包丁だけだ。まな板も小ぶりのものが一つだけ。
――こんなことならちゃんと自炊をすべきだった――
そう反省しても後の祭りに過ぎない。
仕方がないので小ぶりの包丁を使って肉を切っていく。もちろん包丁の正しい持ち方など知らないので――そもそも正しい持ち方がこの世に存在するのかも知らない。きっと存在しているのだとは思うが――祐樹にとって一番使いやすい方法、つまりメスの持ち方で包丁を握る。レバーと牛肉が肉類で、その他は野菜類だ。ツイいつも切っている方、つまり肉類から切ることにした。食欲のない教授には細かい方が良いだろうな…と思う。一口サイズを心がけることにした。3センチ×3センチくらいか…と思う。
「手伝おうか?」
キッチンスペースの椅子に寄りかかって祐樹の姿を見ていた教授が見かねたように言ってくれた。が、病人に手伝わせるわけにはいかない。
「本当は出来るまでベッドで休んでいて下さいと申し上げるところです。手伝いなどとんでもない…」
そう強い口調で言い切ると教授は祐樹の手先を少し見てから慌てて目を逸らしている。
レバーをまず始めに切った。
祐樹は刃物で一番馴染みが深いメスの持ち方がリスクは少ないと判断して包丁の柄の部分を上から握りこむようにして肉を切ることにする。
3センチと決めていたので、ツイ顕微鏡で検査する検体と同じように3センチ×3センチの長方形の肉片がどんどん出来る。包丁は幸い切れ味が良かったので程なくレバーの切片が出来た。自分でも惚れ惚れするくらい、大きさは全て同じだった。
――案ずるより産むが安しだな――
と牛肉に手を伸ばした祐樹に、教授の控えめな制止の声がかかる。
「違う種類の肉を切る時は、煮沸消毒か、せめて洗った方がいい。包丁には菌が付いているハズだ。まな板も…」
「参考になります」
全く考えていなかった自分の迂闊さを責めたい。
そう言ってお湯を沸かし、包丁とまな板を煮沸消毒することにした。次は牛肉だ。こちらは最上の松阪牛の霜降りだったが、3センチ×3センチでサクサク切っていく。肉を切るのは、(こう表現すると語弊があるが)慣れている。あっという間に肉は切り終わった。
包丁に肉の脂肪分が巻き付いているので、先ほどから沸かしているお湯で煮沸してから、難関の野菜に移ることにする。もちろんまな板もお湯を掛けた。
こちらも3センチでいいか?と思ったので、まずほうれん草から切り始めた。葉の部分も茎の部分も定規で測ったように3センチに切っていく。と、困ったことに根っこの部分は頼りなさ過ぎて3センチでは貧弱すぎる。しかも、コンビニなどのお惣菜でほうれん草の胡麻和えなどを売っているが、あれにはそもそも根っこが付いていなかったことに気付く。
もしかして、もっと細かく切るのか?
そう思ったが、無駄とは思いつつ、祐樹の後ろで椅子に座っている教授に聞いた。
「ほうれん草の根っこって、どうするんですか?細かく刻むのですか…もしご存知なら教えて下さい」
彼はしばらく何かを考えるように沈黙していた。
「そういえば着任早々、斉藤医学部長などと料亭に行ったことがある。そこは変わった料亭で、材料を見せて産地と作った農家の名前などを紹介して、目の前で料理してくれるといったシステムだった。今思えば、産地偽造などを防ぐためだったと思うのだが…そこでほうれん草のおひたしが出たが、根は切り落としてしまって、ピンク色の部分からゆでていたと思う…ついでに3センチではなくもっと長く切っていたような…」
言いにくそうに答えが返ってくる。
「そういえば…居酒屋でも下の部分はピンク色をしてました。教えて下さって有り難うございます」
そうか、ほうれん草の根っこは食べられないのか…トリビアを仕入れた気分だった。長さは味には関係ない…見た目にはとても関係有るとは思うのだが…だが、切ってしまったからには仕方ないと開き直った。
「全く初心者なので…ヘンなしゃぶしゃぶが出来てしまう蓋然性が高いです…スミマセン」
教授は微笑んで答える。先ほどよりも少し体調はマシなようだった。
「祐樹が手作りしてくれるだけで私は満足だ。それに食べ物は胃に入れば皆一緒だ」
「では春菊も根っこはダメですよね?」
「ああ、多分。料亭では見たことがないから…」
「シイタケの足の部分も、見たことないですよね?」
「ああ、見た記憶は全くない…」
「では切り落とします」
シイタケは買ってきた時から大きさが微妙に違うので、綺麗に同じ大きさにならないのにはイライラするが、仕方がない。
最後に豆腐の挑戦した。まな板に置いた時には肉や野菜と違う柔らかさに少し気後れがしたが、包丁を入れてみると脳の柔らかさだった。これには学生時代に慣れている。同じように3センチの立方体に切った。
御飯は「玄関開けたら二分で御飯」のキャッチコピーのレトルトがある。しゃぶしゃぶ鍋に付いていたガスの缶を説明書通りにセットし点火する。
「寄せ鍋の素と、しゃぶしゃぶの素を買って来たのですが、どちらがいいですか?」
彼はしばらく考えてから口を開いた。
「祐樹の好きな方でいいが…具がたくさんあればあるほど寄せ鍋は良いと聞いているので、今日はしゃぶしゃぶが良いのではないだろうか?」
「分かりました」
そう言って、取り皿に一番適した小皿を見つけ、お箸はコンビニで貰って溜まっていた割り箸を用意した。お茶碗は奇跡的に二つあったのでチンして御飯を入れた。
テーブルに並べて教授と向かい合わせに座る。湯気を囲んで向かい合うと、感情までもが暖かくなるようだった。流れる空気が親密さを孕む。
しゃぶしゃぶ鍋が沸騰したので、肉とほうれん草を入れてみる。
予想外のことが起こって2人は呆れるのを通り越して2人とも笑ってしまった。
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