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第七章 第10話

 沸騰したお湯にほうれん草を入れた瞬間、お湯が黄色と緑色の中間色のような色に変わった。予想外の変色の上にほうれん草はみるみる小さくなっていく。  おまけにしゃきしゃきした野菜に火を通すとペースト状とまでは行かないが、小さくてスグに溶けそうな感じに変化した。  その様を見て、2人は思わず笑ってしまう。祐樹にすれば、もう笑って誤魔化すしかないという自棄に近い笑いだった。が、教授は祐樹の表情の変化を見て、心の底から楽しそうに笑っている。頭の隅で、「こんなに楽しそうに笑う教授は初めて見た」と思い、それだけは嬉しかった。  ほうれん草は是非とも教授に食べてもらいたかった…というのが一番最初に頭をよぎる。  が、お箸では掴めないくらい小さく頼りないシロモノに成り果てている。 「ス、スプーン…で掬えば食べられる…」  瞬時に思い、食器棚とは名ばかりの棚に走った。金属製のスプーンはレトルトのカレーを食べる時くらいしか使わないが、引き出しに仕舞ってあったハズだ。  スプーンを大急ぎで探し出し、ほうれん草を掬って教授の小皿に入れる。ちゃんとしゃぶしゃぶの素が入っているので味だけは悪くないと…信じたい。 「見た目はとても悪いのは承知しています。でも身体には良いハズなので召し上がって下さい」  恐る恐る言うと、教授は別に動じる様子もなく器用に箸で掬って食べる。 「ビタミンはアクと一緒に流れ出たと思うが…鉄分は大丈夫だろう。美味しい…と…思う・・・」  本当に美味だと思って食べているハズはないな…と、がっくりする。灰汁って確か、食材に含まれる食べるのに邪魔になる、苦い部分だろうな?と高校時代の知識を必死に辿る。  鍋に視線を戻すと、レバーもすっかり縮んでいたが、黄色いお湯の表面に小さな茶色の泡が浮いている。 「教授、これは何ですか?」  すっかり小さくなってしまったレバーをどさどさっと教授の皿に入れながら聞く。 「え?これはレバーのアクだろう?肉類を鍋に入れると普通はこうなる…」  そういえば、そんな小さな泡を鍋で見たことがあった。医局の忘年会で鍋料理を食べに行った時に…。だだ割と高級な店だったため、この泡は仲居さんが掬ってくれていたように思う。となると、掬わなければならないのか?  生憎、スプーンは一本しか自宅には置いてない。まさか今教授がほうれん草を淡々と食べているスプーンを貸して下さいとも言えない。 ――そういえば、コンビニで貰ったプラスチックのスプーンなら有ったハズ――  また席を立つと引き出しに走った。頭の中は手術の時以上にパニックになっていたが、そういう時の祐樹は職業柄か頭脳は冴え渡る。  仲居さんが別の壺のような皿にアクを入れていたことを思い出す。といっても、今日は乏しい食器を総動員しているため、壺のようなものどころかまともな食器は残ってない。 ――どうせ、アクは捨てるモノなんだから、食器でなくてもいいか――  そう開き直ると、捨て忘れていたカップ麺の容器が目に入る。  プラスチックのスプーンと洗ったカップ麺の容器を持って席に着いた祐樹は厳かに言った。 「アクは取るものだと…教授さえ宜しければ、このスプーンとこの容器を使って取ります」  彼は一瞬唖然とした表情を浮かべたが、直ぐに笑う。先ほどと同じ、心から楽しんでいるといった笑い声だった。 「ああ、存分に掬ってくれ…。ただ、祐樹は全然食べてないじゃないか…アクがあろうと、肉が縮んでいようと、祐樹の手料理というだけで充分満足だから」 「ホントはムリしてませんか?」  手際よく表面の泡を掬ってカップ麺の容器に入れながら恐る恐る聞いた。 「ムリなんか全くしていない…祐樹が私のために食事を作ってくれるだけで満足している」  綺麗に澄んだ真摯な瞳で言われると、少しは安心した。 「お鍋のお湯の色は気になりませんか?」 「別に…。私は気にならないが…」  掬い終わり、肉を先ほどよりも多く入れた。すると、黄色のお湯が白濁色を帯びる。モチロン、アクも程なくして浮いてきた。 ――今度は何だ~?――  と心の叫びを自覚する。 「これは一体?」  先ほどからドキドキし続けなので、ツイ独り言が漏れる。 「ああ、これは牛肉とレバーを一緒に入れたから、アクがたくさん出てきたのだろう?食べるのには支障はない。それより早く引き上げないと肉がどんどん小さくなる…」  そう言って彼は祐樹の小皿に牛肉の、しかも一番良い部位を入れてくれる。  祐樹が食べている間に教授がプラスチックのスプーンで器用かつ手早くアクを掬ってくれた。  教授はかなり元気になったようで、レバーをオカズに御飯も口に運んでいる。 「あ、福神漬けがありますが、召し上がりますか?」  しゃぶしゃぶのタレは流石デパートで売っているだけあって美味しかったが、焼肉のタレなどとは違って御飯のオカズにするのは味が薄すぎる。 「漬物があれば、御飯も多分進むだろうから…お願い出来るか?」 「ええ。問題は賞味期限なんですけどね…」  ほとんど何も入っていない冷蔵庫だが、レトルト関係のモノは気が向くと買っていた。福神漬けの袋をしげしげと眺めて賞味期限内なのを確認してから教授のお茶碗に入れる。  しゃぶしゃぶの鍋のお湯(と呼んでいいのか、もはや見当もつかないシロモノ)は替えるべきだろうかと懊悩する。 「あのう、このままでいいですか?お湯、替えた方が…」 「いや、大丈夫だ。祐樹が気にしないのなら私も気にしない」  福神漬けと御飯を食べていた教授は言った。彼の場合は料理に無頓着なのではなく、祐樹に気を遣ってくれているのだろうな…と思う。  ほうれん草を箸で掴み、湯の中でひらりと動かしてから教授の皿に入れる。レバーも同様に…。それを繰り返して、彼の小皿を肉と野菜でいっぱいにする。 ――そういえば、しゃぶしゃぶとは本来こういう食べ方をするものだった――  そう思いつく。今の段階で思いついたのは後の祭りかもしれないが。  アクを掬っていると教授が福神漬けを祐樹の茶碗に入れてくれた。  鍋の中身を見ると少し(かなりかもしれない)不気味な色だったが、湯気の立つ鍋を囲むと二人の心の距離がさらに縮まったように思えた。  教授は、出会って食事をした中では一番食べている。そのことだけで、今日の疲労は払拭される気がした。

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