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第七章 第11話
――つ、疲れた――
今日用意した食材が2人の胃に収まってしまい、最初に思ったのがそれだった。
料理がこんなにも疲れるものだとは全く知らなかった。
ただ、教授は今までで一番笑ってくれたし、料理もたくさん食べてくれた。多分、祐樹が見てきた中では一番食べたのではないだろうか?
それに教授のストレス…ストレス発散は色々な方法があるが、思いっきり笑うのも発散になると充分なエビデンス(根拠)付きの論文が学術誌に載っていたので間違いはないだろう。
教授を笑わせたいのはやまやまだったが、料理以外で笑わせようと決意する。
――明日にでも、料理の本を買って来て、ついでに食器も用意しようか、な?――
心の隅でそう考えた。
なまじの手術をするよりも精神的に疲れたので、ツイ煙草が吸いたくなった。
「ご馳走様」
そう言って教授は箸を置き、祐樹に頭を下げた。
「いえいえ、全く、全然至りませんで…」
高級料亭に手の指で数える程度には行ったことのある祐樹だった。「ご馳走様」と言われると仲居さんが「至りませんで」と言ってくれたな…と思い出し、自分の正直な気持ちとして「全く」と「全然」を付け加えてみた。
「いや、こんなに食べられたのは久しぶりだ…。美味しかった。有り難う」
「これからはもっと勉強して、ちゃんとした料理を作りますから。それに教授用の食器も買いますので…」
そう言った途端、教授は読み取るのが難しい表情を浮かべた。強いて言えば、「困惑」だろうか?
「そうですよね…こんな料理は教授の口には合わないですよね…。私が作るというのがそもそも無謀でした…」
「…いや、そんなことはない。ただ、寝る場所まで提供してもらっているのに、これからも料理を作って貰えるというのでは…祐樹に迷惑ばかり掛けているような気がして…。祐樹の手料理は毎回でも食べたい…のだが、ワガママだろう。食器まで買ってくれるという気持ちだけでも嬉しいが、心苦しい」
この言葉は婉曲な断り文句なのだろうか?それとも、本心の吐露なのか…それが分からない。
真意を計りかねて彼の表情から読み取ろうとした。
しばらく彼の綺麗な瞳を見詰めていた。すると不意に祐樹の携帯の着信音が鳴った。音を頼りに携帯を探す。何しろ、帰宅してからは料理に必死でそれ以外のことは頭から飛んでいたので。
着信音が切れる前にスーツの内ポケットから発見出来た。誰からの着信かをまずチェックした。
杉田弁護士からだった。急いで電話に出た。
「こんばんは。香川教授の容態はどうだね?」
「お世話になっていて申し訳ないです。今日は大分良くなられたと思いますよ…」
祐樹が通話を始めてからさり気無く視線を外して我関せず…といった態度の教授だったが、話の内容が自分のことのようだと気付くとこちらに視線を絡めてきた。
「田中先生でも香川教授でもどちらでもいいのだが、星川ナースの件で分かったことがあるので知らせておこうと思ってね」
祐樹が聞いても良かったのだが、杉田弁護士の声が明るかったので良い知らせだと思った。それなら教授の耳に直接入れて置いた方が良いと判断する。
「香川教授と代わりますのでしばらくお待ちください」
そう言って通話口を掌で押さえてから「杉田弁護士からです」と報告して電話を渡す。
「お手数をお掛けして申し訳なく思います。ええ、体調はかなり良いです。今日は田中先生が滋養に富んだ美味しい物を手作りして下さって…ええ、久しぶりに食事を美味だと思いました」
多分、「大丈夫か?」の返事だと思う。杉田弁護士相手に(隣で祐樹が聞いているとはいえ)お世辞は言わないだろう。不味かったなら黙っておけば済むことなのだから。
――よし!明日は絶対、何が有っても書店に行って料理の本を買おう!食器もそろえよう――
そう決意した。
「え?彼女のクレジット照会がもう来たのですか?それで…何か分かりましたか?」
「ならば、買収されやすいということですね…。有り難うございます。また分かり次第ご連絡戴ければ…。あ、はい、では代わります」
携帯電話を手渡しながら彼は言った。
「杉田弁護士が祐樹にプライベートな話があるそうだ。何なら他の部屋に行っているが…?」
「いえ、別に隠すようなことはありませんよ」
「何を隠すって?」
電話の向こうで杉田弁護士が聞いてくる。
「いえ、こちらの話です。プライベートの話・・・は、阿部師長の件ですよね?」
仕事の話を優先させてからプライベートに移る。この辺りにも大人の分別が感じられる。
「もちろんだ。何か聞いてくれたか?で、感触は?」
いつもは落ち着いて話す彼にしては、若干早口だった。きっと気に掛かっていたに違いない。
阿部師長の件と聞いて、香川教授も切れ長の綺麗な目を丸くしてこちらを見ている。
「いい感触でしたよ。先生のことは憎からず思っているようです」
「しかし、我々のような…」
「はい、その件もちゃんと話しました。特殊な性癖の持ち主ではあるが、一途な人だと言いましたが、間違いではないですよね?」
「もちろんだ。だた、田中先生がどうしてそれを知っているか突っ込まれなかっただろうか?」
流石に鋭い。苦笑して言った。
「突っ込まれましたよ。なので、彼女の口の硬さを見込んで私もツイありのままを言ってしまいました」
何となく、話の内容が分かるのだろう。教授はこちらの話を一言一句聞き漏らすまいといった表情で、祐樹の顔を凝視している。
「…済まない…。田中先生まで巻き込む積りはなかったのだが、彼女のシャープさからすると、そうなるかもと危惧していた」
「いえ、別にそれは構わないです。で、彼女は、結婚して愛人を作るようなストレートな遊び人よりも、ゲイであっても結婚したら火遊びのしない人の方が良いと…」
「それは約束する。といっても、田中先生に約束しても仕方のないことだな…。連絡したいので彼女の電話番号を聞いてきてくれないか?
あ、まさか、香川教授の件まで告白したなどということはないだろうな?」
「ええ、教授の件は隠蔽出来ましたよ」
そう言った瞬間、彼は心配そうとも残念そうとも取れる不思議な表情をした。後でキチンと説明しようと思う。もともと、食事をしながら杉田弁護士と阿部師長の件も話す積りだったのだ。食事を作るのに必死な余りにそんな余裕が物理的にも心理的にも無かっただけなのだから。今夜はたくさん報告すべきことがあるというのに…。
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