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第七章 第12話

「分かりました。阿部師長に『杉田弁護士が携帯の番号を教えて欲しいと仰っているので、教えてもいいか?』と明日にでも聞いておきます。どの道、救急救命室には教授の薬剤などを取りに行かなければならないですし…」 「宜しく頼む。いやぁ、この件を引き受けて本当に良かったと思うよ…香川教授のような人と食事は出来るわ、阿部師長と出会えるわで…」  少し、ムッとした。香川教授と阿部師長を比べるというのが腑に落ちない。全然価値が違うだろ!と思った。が、口には出さない。 「しかし、彼女は仮に結婚しても専業主婦にはならないと思いますよ。救急救命に命をかけていますから…で、先生は救急救命室勤務がどれだけハードかはご存知ですよね?」 「安楽な専業主婦志望の良家のお嬢様と昔さんざんお見合いをさせられた。ああいう女性をと望む男性はたくさんいるだろうが、私は仕事面を含めて彼女を好きになったのだ。いいねぇ、ああいう性格…ああいう男性らしい女性を生涯の伴侶としてみたかった…」  杉田弁護士の述懐はまだまだ続きそうだったが、教授が黙って立ち上がり(といっても足取りは随分元気そうだったが…)夕食の後片付けを始めたのを見て、通話を終らせようと躍起になった。自然と早口になる。 「分かりました。とにかく携帯の番号は聞いておきますから…ついでに電話を掛けるかメールにする方がいいか…明日中に御返事します」 「初デートは、何を贈ったらいいだろうか?」  食器を効率よく積み上げてシンクに持って行き、捨てるべきものはゴミ箱に張ってあった「ゴミ分類」に分けて捨てている教授を申し訳ない気持ちで眺めた。 ――知るかよ!バラでも蘭でも好きなものを持って行け!――  もし、祐樹が友達からの相談だったらそう言って電話を切ってしまいそうだったが、相手は香川教授の窮地を救ってくれる人だ。ムゲには出来ない。  「女性が喜びそうな花束とか…」  早く切り上げたかったので、語尾は上げた。が、相手は自分の思考にハマっているらしく、気付いては貰えなかった。 「私は何故か菊が好きなんだが…菊は流石にマズいだろう?」  苦渋に満ちた声だった。菊はお葬式のイメージが強い花だ。女性でも男性でも貰った人はギョッとするだろう。 「分かりました。明日何の花が好きか聞いておきます。用件は以上ですか?」  もう、これ以上は話さないぞ…という気持ちを言葉の最後で表現した。 「宜しく頼む。ところで、香川教授はだいぶ元気そうだが、夜中にヘンなことをするなよ」  チクリと釘を刺すのも忘れない。流石は年の功だ。 「しませんよ。では、また明日、連絡します。」  そんな話をしているうちに、テーブルは綺麗に拭かれ、食器は全部――しゃぶしゃぶ鍋も含めて――洗ってあった。布巾やまな板まで漂白剤に浸けてある。彼の手際の良さは手術以外でも発揮するらしい。その一連の作業を祐樹と杉田弁護士の話を聞きながら一番合理的なやり方で片付けているのを見守るしかなかったのは大変遺憾だ。 「スミマセン…本来ならば私が片付けまでしなければならないところを…」  教授に後片付けをさせる研修医が――ここは病院の中ではないが――どこの世界にいるだろうと思い、またその教授は病人なのだと思うと、申し訳なさに身がすくむ。 「いや、構わない。作って貰ったのだからこれくらいは…」  そう言いながら、お湯呑みにお湯を注ぎ、急須――これは祐樹の今は入院している母が送って来てくれたものだ――の茶葉を捨てて同じように湯を注ぐ。そして急須の湯を捨て茶葉を入れ、少し前に沸騰させていたお湯を注いでいる。 「杉田弁護士は阿部師長を好きになったのか?」 「ええ、そのようです。初恋に落ちた高校生のような感じでしたね…。贈る花束まで聞かれて少々困りました」 「へぇ、何故困る?」  お湯呑みのお湯を捨てて、急須からお茶を交互のお湯呑みに注ぎながら聞いてきた。 「それが…杉田先生は菊の花がお好きだそうで…あのままだと菊の花束を贈りかねません」  教授は笑った拍子に危うくお湯をこぼしそうになった。 「食後のお茶」  ぶっきらぼうにそう言って湯呑みを祐樹に差し出す。テーブルに座って飲んでみると、驚くほど美味しかった。いつも自分が適当に茶葉を入れて飲んでいるものとは雲泥の差だった。 「美味しいです。入れ方次第でこんなにも違うのですね…」  本心から感心して言った。教授は優しく微笑む。差し向かいでお茶を飲んでいると心の温度が上昇する気がした。 「杉田弁護士は、星川ナースの件を何と?」  脱線部分の方が多かった気がするが、本来の用件はこちらだ。 「『星川ナースは各種クレジット会社のブラックリストに載っている。キャッシングでかなりの借金があるらしい。ただ最近は返済したものがかなりある』と言っていました」 「なるほど。ボーナス月でもないのにヘンだな」 「だから『臨時収入』があったのではないか…との指摘でした。少しは光明が見えて来ましたね。さて食事も済んだので、薬を飲んで下さいね」  彼は白い顎を仰け反らして薬を飲む。その白くて細い首筋のラインに見惚れる。 「注射もしておきましょう。もう、休んだ方がいいですので…。」  薬剤には睡眠薬も混じっていることも教授は知っている。 「もう少し、話をしていてはダメか?」  祐樹としても話したいのはヤマヤマだったが、まずは彼の身体のことを優先したい。心を鬼にして冷淡に言った。 「ダメです。ほら、手を出して」  その取り付く島のない様子に諦めたのか、教授は素直に左手を差し出した。シリンジの針が白くてしなやかな腕に刺さって行く様子は、少し痛々しい。数種類の薬剤が彼の血管に吸い込まれて行った。止血のテープを貼ってから言う。 「では、ベッドに入って下さい。あ、着替えてからですよ。私はシャワーを浴びてきます」  得体の知れない鍋料理で身体は温まっているはずだが、やはり貧血には冷えはマズイだろうと寝室のエアコンを僅かに効かせる。  手早くシャワーを浴び、寝室に入った。多分寝ているだろうな…と静かにベッドに入ると、薄暗がりの中で彼の目蓋が開くのが見えた。 「祐樹のお陰でかなり良くなった。なのに・・・祐樹は何故私を抱かない?一回したら飽きた…のか?」  入眠剤の注射のせいか、少し朦朧とした口調と眼差しだった。  彼を胸に抱き寄せて言い聞かせるように言った。 「まだ、本調子ではないですからね。内田先生の許可が下りたら抱きますよ。でも、この部屋はダメなんです。安普請ですから、隣の物音が筒抜けなんですよ…。隣室の住人は学生らしいのですが彼女が泊りに来たのはスグに分かります。当然アノ声も…ね。私は教授のイイ声を私以外の誰にも聞かせる積りはありませんから」 「そうか…それなら、い」  その言葉を最後に眠りの国に入った彼の唇に自分の唇をゆっくりと重ねた。

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