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第七章 第18話

 すっかり馴染みの風景となった教授室に入った。手術は通常九時からなので準備時間を入れてもまだまだ時間はある。朝の眩しい光を遮るためか部屋を横切った教授がカーテンを半分ほど閉じた。 「そんなことは私に命じれば良いんです。座るか横になるかなさっていて下さい」  少し不本意そうに眉を上げて彼は反論した。 「祐樹もあの数値を見ただろう?もう大丈夫だ。手術だって一件だけだし」  その手術のしすぎで倒れたのではなかったか?と理不尽な怒りに駆られて、ツイツイ口走ってしまう。 「今日はその後で…教授会の予定…ですよね?」 「そうだが?そちらのほうは大丈夫だと言ったハズだが…信用してくれないのか?」  彼は執務用の椅子には座らずに、ドアの近くに立っている祐樹に向かって歩いて来た。  立たせたままというのもまずいので来客用の椅子に座る。彼も向かいに腰を下ろした。  本当は隣に座りたかったのだが。 「信用はしています。心配なだけですよ…。教授を妬んでいる人間がたくさん居ることも自覚して下さいね」 「それは分かっているつもりだし、ちゃんと考えも有ると言っただろう?…心配してくれるのは嬉しいが」 「では、せめて教授会の時間は携帯を繋ぎませんか?」  手術は祐樹も見ていることは出来る。が、教授会には入室出来ない。苦肉の策を考えていた。携帯を通話状態にしておけば声だけは聞こえる。多分、その時間は居ても立ってもいられないハズだから。それならば状況だけでも確かめられるほうがまだマシだ。 「私の携帯から、祐樹の携帯に?教授会の声を拾おうと?」 「ええ、状況が分かれば、必要以上にヤキモキすることだけは防げます」 「そんなに心配してくれているのか…」  愁眉を開いて彼は微笑んだ。優しげな風貌がよりいっそう際立つ。思わず見惚れてしまった。 「ええ、とても」  中腰になり机に左手を付いて身を乗り出した。驚いた顔をした彼の頭を右手で引き寄せる。祐樹の意図が分かったのだろう、彼は瞳を閉じた。掠めるだけのキスを交わす。唇を少し離して恨ずるように囁いた、目を瞑ったままで。 「だから、教授会の時は携帯を。良いですね。もし、内田先生のお許しが出たら…あのホテルでお待ちしています」  彼の頭に置いたままの手が彼の震えを感じた。目を開けると唇も震えている。宥めるようにもう一度唇を合わせた。唇から自分の全てが伝われば良いのにと切実に思った。 「分かった。分かったから…。祐樹の言うことは全部聞く。だからここでは、もうこれ以上…」  僅かな力で祐樹の胸を押し返して彼は言った。 確かにいつ教授の秘書が出勤してくるかも知れない今、これ以上はマズい。 「約束して下さいますか?」  唇を彼の耳元に移動させてそう念押しをした。  彼は変なところで強情なので油断は出来ない。  その言葉を聞いた途端、彼は身体に電流が走ったような痙攣を起こす。これは感じているからなのか、それとも体調のせいなのかと確かめるためにも幾分細い身体を机越しに抱き締めた。 「や、約束する。……だから、その手を…離してく…れ」  抱き締められたまま、言葉だけで抵抗する。  この様子ではきっと前者の理由からだと納得し、身体を離した。  執務机の電話が鳴った。受話器を取るために立ち上がり振り返って見ると、彼は悩ましげな顔をして椅子に脱力して腰掛けていた。その表情は壮絶な色香を纏っている。 ――いつまでも観賞していたい顔だな――  そんなことを思いながら電話に出た。 「本日の教授会で、斉藤医学部長の代理を急遽務めることになった内科の今居だが…香川教授はもう出勤してきているかね?」  名前を聞いて、今までの満足感が吹っ飛んだ。「げっ」と言う声を出しそうになり、慌てて強いて事務的な声に取り繕う。 「はい、いらしていますが。生憎ただ今席を外されております」  最悪の人選だ。今居教授は香川教授を買っている斉藤医学部長の天敵なのだから。  多分、香川教授の失点をここぞとばかりに言い立てるだろう。 「そうか…なら君から伝えたまえ。私は外科のことは専門外なので、香川外科以外の外科の医局から手術の様子を拝見させてもらう。その後にその外科医の判断を教授会で発言してもらうことにしたと」  要するに手術にもお目付け役がやってくるのか…と目の前がすっと暗くなるのを感じた。決して貧血ではないが。 「承りました。そのようにお伝えします」  先方が電話を切ったのを確かめてから受話器を下ろす。 「祐樹、どこからの電話だった?」  先ほどの余韻を上気した目の回りに漂わせただけで、他は冷静な顔と口調で聞いてきた。 「サイアクです。教授会の議長が、今居教授に変わったらしいです。あの教授は内科なので外科医を午前中の手術の見学に入らせると…」  教授は狼狽するだろうな…と予測し、その動揺を最小限に抑えるためにはどうすればいいかを素早く考えながら報告した。 「……そうか。私を快く思わない外科の医師が手術の検分に来る…というわけだな」  予想を裏切って教授の声は平静だった。星川ナースの件で手術室は一触即発なのに…。 「星川ナースに、借金のことを仄めかしましょうか?弱みを握られたと知ったら少しは大人しくなるのでは?」 「それは止めてくれ。私にも考えが有る。祐樹をバックヤードに指名したのは、昨日の時点では私の健康状態が不安だったからだが、今となってはその懸念の方は大丈夫だと思う。祐樹が見守ってくれると分かっていたらもっと頑張れるような気がする。  祐樹がそれほど心配してくれるのは嬉しいが。ただ、星川ナースはいつもの通り邪魔をしてくれた方が有り難い」  彼は意味不明なことを自信有りげに言った。 「それはどういう?」  彼は形の良い唇を微笑の形に刻んだ。 「詳しくは私の手術を見ていてくれ。祐樹が見ていると知っていれば、私もさらに心強い」  それから幾分声を落として確かめるような口調で言った。 「内田講師が『健康体です』と言ってくれたら、あのホテルで待って…いてくれるのだろう?」 「ええ、もちろん」 「それを心の支えにして、今日の手術も教授会も乗り切ってみせるから…。だから…」  そう言って彼の方から唇を重ねてきた。  そろそろ、教授は手術の用意をしなければならない時間だ。不安や懸念は山ほど有ったが、彼の手腕を信じたい。 「ええ、内田講師も多分許してくれますよ」 「ではあのホテルで…」 「ええ。ただ、昼休みには昼食を用意してこちらにお邪魔しますが…」  彼は桜色の唇で微笑した。 「ああ、待っている」

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