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第七章 第17話

 一緒に戻って来た阿部師長が、香川教授の発言を聞いて意味深な表情を浮かべる。それを視界には入れていたが、彼女の侠気に賭けることにする。 「この数値では、内田講師でなくても回復したと分かりますが…一応、先生にも相談しますね」  それでなくても忙しい教授の健康状態を、祐樹の下心だけでまた悪化させるのは本意でない。欲、いや、感情は感情、理性は理性だ。  香川心臓外科の医局員の立場からも、彼に惹かれている1人の男としても…。  教授は不本意な顔をした。 「本当に体調は良いんだ。ゆっくり眠れたから…」  それは彼の白い顔が少しはマシになったし、何より昨夜から元気そうだ。だが、祐樹は内科の専門医ではないし、内科学の知識は医師国家試験の時がピークだったことも自覚している。やはり、専門医にアドバイスを貰った方が良い。  しかも今日は教授会が行われる。香川教授が吊るし上げられたら、教授の体調もどうなるか分からない。「病は気から」ということわざがあるが、精神的な病気や疲労に因る疾患の場合それは事実だ。 「それはそうですが、大事を取った方が良いですよ」  あえて教授会のことは口に出さない。教授が口に出さない以上は、自分が口を差し挟むべきこととは思えない。心配はしているが…。  救急救命室のパソコンで今日の手術のことをチェックさせて貰った。  今日の手術は、多分、黒木准教授の思いやりだろう…(彼も別ルートで教授会のことを知ったのかもしれない)午前中に一件しか入っていない。香川教授の立てた手術計画では午後からも手術のスケジュールが入っていたハズだ。確かに昨日見た時にはそうなっていた。  准教授権限で変更したのだろうか?教授が倒れた場合は准教授がそのサポートをする。彼も教授の体調を憂慮していたし、しかも今日の教授会のことを知っているならなおさらそういった処置を取ることもある。 「ほら、手術も一つ減らしてありますよ。黒木准教授も心配なさっていらっしゃいます」  そう言って手術室のスケジュール表を見せる。今日の手術に関する部分をプリントアウトして全部渡した。  教授は眉間にわずかなシワを寄せて書類を見ている。  ちなみに午前中の手術には祐樹の名前は無かった。執刀医は香川教授、第一助手は黒木准教授で、第二助手は柏木先生だ。自分は外されたのか…と思う。   手術自体は星川ナースの名前も有ったが、この2人のアシストがあれば大丈夫だろうな…と思う。二人とも星川ナースの件は強い危機感を持っているのだから。  周りには阿部師長以外にも医師やナースの姿も有る。長居は禁物だ。ここでは香川外科の話は出来ない。今日の教授の検査結果を素早く頭に入れた。後で内田講師に聞いてみなくてはいけないのだから。 「もう、治療は終わりましたか?」 「ああ、終った」 「では行きましょうか」  そう言って阿部師長に頭を下げた。何か忘れているな…と思い出して、手で招く。患者さんも途切れていたのでちょうど良い。 「士長の好きな花は何ですか?」  小さな声で聞いた。一瞬目を丸くした彼女だったが、先ほどの会話の流れだと分かったのだろう。 「百合…かな?真っ白くて大きな花が好き」  やはり菊ではなかったなと苦笑する。百合の花というのも女性が好きそうな花なので彼女もやはり女性らしい一面を持つのだと微笑ましく思った。 「バラではなく百合なのですね…。」 「バラなどの香りのしない花は患者さんのお見舞いに良く病室に持って来られるから…仕事を連想してしまって…」  なるほどなと思う。彼女らしい考えだ。そういえば自分達の病棟でもバラなどの花は見慣れているが、百合はあまり見たことはない。 「百合ですね。そう伝えます」 「お世話になりました」  そう言って教授が救急救命室を後にする。ナース達はもちろん、医師も深々と頭を下げて見送ってくれる。ここでは、阿部師長の目が行き届いている。不用意なことは外部には漏れないだろう。  教授室に向かう。もちろん教授が先に立って歩き、祐樹は後ろに従う従来の形だ。彼が体調は良いと言っているのだから、病人扱いは出来ない。 「今日の手術…私は立ち会えないのですね…」 「実はもう一件の方に立ち会ってもらう積りでいたのだが…。午後の手術の緊急度がそれほど高くないので黒木准教授の裁量に委ねることにした。  これを見る限り手術を後回しにしてしまったのだろうな…私としてはいささか忸怩たる思いはするが…もう大丈夫なのに…。 ・・・ただ手術中…祐樹にはバックヤードに居て欲しい」  歩きながら書類を読んでいた教授が言った。声は僅かに湿っている。自分の体調のために一件の手術を延期させたのが原因だろうか…。手術は執刀医ばかりがクローズアップされるが、麻酔医を始めとする先生たちや、ナースや手術室の技師たちの協力が有って初こそ成り立つ。その人たちのスケジュールを変更してしまったことに気が咎めるのだろう。少なくとも今まで見てきた教授の性格からすればそう考えるのが妥当だ。  バックヤードに医師を置くことは余り無い。やはり、少しは体調に関する不安があるようだ。あくまでも念のためだとは思うが。  無理をしているわけでもなさそうな歩調で教授は歩いている。が、やはり手術ともなると体力も精神力も使うので、何があるかは分からない。祐樹自身は手術に参加したかったが、万が一術者になってしまうと手術優先になる。不測の事態が起こった場合、自分の裁量では動けなくなるのでこれはこれでいいかと思った。 「このスタッフを決められたのは何時ですか?」 「昨日だ」  昨日…教授回診の時は、まだ体調不良の不安が残っていたのだな…と思った。手術自体は、黒木准教授と柏木先生が居るので大丈夫だろうと思う。イザとなれば祐樹も遊軍として参加出来る立場の方が有り難いと言えば有り難い。   その隙に内田講師にアドバイスをしてもらおうと思った。 「手術の準備に掛かるまで教授室に居てもいいですか?」  彼の目が一瞬大きく開き、それから静かに頷いた。

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