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第七章 第16話
大学病院は、専門性に特化した病院だけに横の繋がりが希薄だ。例えば祐樹には全く縁がない精神科の教授の名前すら知らない。知っている教授と言えば、日本を代表する――平たく言えば、論文や研究で国際学会に認知されている――教授の名前を学会誌で見るだけだ。それでも流石に外科の教授の名前は知っているが。ただ、その人柄は面白おかしく伝わってくるが、根も葉もないウワサの方が多い。
救急救命は、基本的には何でも受け入れる。骨折だろうと、胃潰瘍だろうと…なので、「外科」ではない。
北教授は臨床にはあまり興味がないのは阿部師長の口振りで分かったが、教授になる道の王道は「論文で認められること」なので、その王道を歩んでいる以上は出世欲が旺盛な人かも知れない。逆に香川教授は日本に来てから論文を書いたことはない。逆に北教授の論文は国際的に認められているらしい。
香川教授の名前を慕って、日本全国から患者が押し寄せてきている。病院経営という点で香川教授は大学病院にとって「多大な貢献者」ではある。が、大学病院が診療よりも論文重視という旧弊な場所である以上、論文の数が多い教授の方が教授会での発言権は大きい。
北教授も論文は多いので、教授会でどういう発言をしそうな人物か、事前に阿部師長に聞いておく必要がある。
「ここだけの話ですが…北教授は、出世欲とか権勢欲がお有りの方ですか…?」
そう聞いてみると、阿部師長は新緑の道端で大笑いをした。
「ない、ない。それは絶対ない。それはあたしが自信を持って保証する!」
笑いすぎで目尻に涙まで浮かんでいる。
「しかし、臨床よりも論文を重視なさる教授は出世欲がお有りの方ばかりかと…」
こんなに笑われるとは思ってなかったので、少し憮然として言い返した。
「原則はそうなんだけど…北教授は、『阪神淡路大震災』の時、ウチの大学病院で勤務していたの。知っての通り、京都は震災の影響をほとんど受けなかったのでけが人はなかった…。当時は全国の病院から医師が助っ人として派遣されたものなんだけど…同じ近畿地方にあるウチの大学にも要請が来て、北教授も志願して被災地の神戸に行くグループに加わったの…で、死者の数の多さや地震の恐ろしさを目の当たりにして――まぁ、助けた命も多かったと聞いているけど――京都は何しろ千年の都でしょ?地震のことを書いた文献が多数残されていることに帰って来てから気付いたのよね。何でも豊臣秀吉の時代だったかな?その時代の地震は作りたての仏像の首が落ちたり、三十三間堂のえっと何体だか忘れたけどたくさんの仏像があるわよね…その仏像が全部ひっくり返ったりしたほどの地震が有ったとか…。その他にも色々地震のことが書いてある昔の記録というか書き物を片っ端から読んで、京都も神戸の件は他人事じゃないと思われたらしいの。万が一京都で地震が起こったらどう対処すべきかとか…死者を増やさないための医療作り…が一番の関心事なんだもの。だから論文とかマニュアルとを作っているの。出世欲がないという点では香川教授と同レベルね、多分」
ああ、そういう方もこの病院にはいらっしゃるのだな…と思う。全く知らなかったので。
「では、香川教授に対して反感などは全く持っていらっしゃらないと?」
「反感なんてとんでもない。むしろ好感をお持ちだと…」
即答だった。こんなに早い答えが返って来るからには北教授は阿部師長に何か仰っているハズだ。喫茶店に着き、オーダーを済ませ、煙草を吸いながら話を続けた。
「何故好感を?」
「まずは、香川教授が学生の頃、救急救命室で手伝いをしてくれたこと。そして、教授になって帰ってきた香川先生は、田中先生を救急救命室にお手伝いに寄越してくれたこと。次に、『有望なウチの医師をお手伝いに派遣させて戴きたいです』と最近香川先生からのメールを受け取ったこと。特に後の二つ…北教授は感謝感激だったもの」
自分が救急救命室に手伝いに回されたのは少しでも香川教授が「優秀だ」と認めてくれたのだろうか?と思うと胸がじんわり熱くなる、前にもチラリと聞いたことはあるが今そのことを他人の口から聞くと尚更嬉しく感じる。
私生活はもちろんだが、仕事でも彼の役に立ちたいと思い始めていたので。ただ、素朴な疑問がわいた。
「私は多分、医学生だった頃の香川教授と同じくらいの治療レベルの持ち主かと思いますが…香川教授の貢献度と、私や、未来のお手伝い医師とを区別するのは何故ですか?」
少し顔を曇らせて阿部士長は言った。
「香川教授が学生の頃とは時代が変わったの…救急医療は、お金も人手も食うところなの。正直、病院でも赤字額はダントツ。これは産婦人科も同じなんだけどね…。
人件費だってバカにならない。けれど減らすと患者さんが搬送されて来た時『受け入れ拒否』をしなければならないでしょ?それは避けたいの…。田中先生は心臓外科から給料を貰っているのよね。もちろん、これから香川教授が派遣してくる先生も同じ。つまりウチの懐は全く痛まずに優秀な先生が来てくれる。これが北教授が香川教授を感謝する理由」
ああ、なるほどな…と思った。ならば、阿部師長には言っておこうかと思う。
「今度の教授会で、香川教授が他の教授から糾弾されるかも…という情報を掴みました。その時、助け舟を出して戴けるように北教授にお願いしておいて貰えませんか?」
「あたしが言わなくても北教授なら、そうすると思うけど…。医療というものは患者さんを助けることだって分かっているから。香川教授はあんなに難易度の高い手術を全例成功させているから…。でも、一応言っておくわね」
煙草をもみ消して背筋を伸ばして彼女は請け合った。これで大丈夫だろう。
「杉田弁護士の件ですが…『連絡したいので、電話番号を聞いてもいいだろうか?』と」
さっきまでの威勢の良さはどこへやら…阿部士長は俯き加減になる。
「ホントに私でいいのかな…。私は勤務時間が滅茶苦茶なので、電話もまともに受けることが出来ないのだけれど」
いつの間にか、「あたし」が「わたし」に変わっている。かなり彼のことを気に入ったのだろう。
「では、杉田弁護士の事務所の番号…はご存知ですよね。携帯の番号とメアドを教えますから阿部師長から連絡してやって下さい。きっと喜ぶと思います。一つ、師長に貸しを作っておきますので…」
イザとなったら、杉田弁護士の名前を出して一回位は手伝いを断れそうだ。
お互いに携帯をポケットから出し、赤外線で送受信する。ついでに祐樹も阿部士長のデータを貰った。
「阿部優子」という名前を初めて見たような気がする。何だか…おしとやかそうな名前だな…と意外に思った。
あっという間に時間が過ぎたので、病院に戻る。救急救命室の扉を開けると、香川教授の晴れやかな笑顔が目に飛び込んで来た。思わず、鼓動が高まる。
「ゆ…田中先生この結果が出た」
そう言って手渡された検査用紙には、全て正常の数値内に収まる検査結果がプリントアウトされていた。
心の底から安堵はしたが、下心も疼くのを止められない。
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