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第七章 第15話

「では、出勤しましょうか?」  見慣れた髪型に整えた教授を誘う。彼は普段は何も持たずに出勤する人なのに今回は百貨店の紙袋を持っていた。 「それは?」  視線で紙袋指し示す。 「…昨日買った服の残りと、昨日着た服が入っている…」  ということは、もう自分の部屋に帰る積りなのかと思った。心にさざ波が立つのを自覚する。  彼と一緒に居る時間がまた職場内だけなのか…と。但し祐樹自身は教授に命令など出来る地位でもない。   職場内は当たり前だが。プライベートでも、たった一回寝た相手というだけだ。教授が祐樹にマイナスの感情は持っていないだろうな…とは思うが、どの程度の気持ちを持っているかは分からない。こういう性癖を持つ人間は「一回寝た」だけでは、恋人同士とは自信を持って断言出来ない。  今までの恋愛は――火遊びも含めて――心境を口で説明された。「好きだ」という言葉も、「お前の気持ちが分からない」と詰られることも…。まぁ、実際の仕事を隠して会社員と名乗って付き合っていた以上、夜中の呼び出しは当時の彼氏に取っては「二股か?」と疑われても仕方ない。特に祐樹は来る者拒まず、去る者追わずがモットーだっただけに・・・。  この仕事は所属する科によっても、そして病院によっても大きく違う。救急救命科や産婦人科などでは患者さんの都合次第だ。ほとんど24時間休みなしに患者は押し寄せて来る。となると、医師や看護師の負担は大きい。大きすぎるぐらいだ。慢性的に人手不足で、皆がキリキリしながら働いているのでミスも起こりやすくなる。悪循環のスパイラルだ。  祐樹の所属していた佐々木前教授時代の心臓内科でも、入院患者が重篤な心臓疾患を患っており、いつ容態が急変してもおかしくなかった。だから祐樹のような研修医はほとんど宿直室で寝泊り…という有様だった。  香川教授がアメリカから帰国して責任者になってからは長岡先生という医師としてだけは稀有な才能を持つ内科医が居るお陰で、夜中の患者さんの急変は減り宿直業務も楽になった。医局のことは――密かに蠢動している医局長の畑中先生や助手の山本センセなどは例外として――黒木准教授の穏やかな人柄のせいで最近はやっと上手く回って来たように思う。准教授以上は自分の部屋を持てるので黒木准教授が医局に居ることは少ないが。  が、准教授が医局に居ると山本センセのさり気無い、しかし陰湿な嫌味攻撃がピタリと止むので祐樹としては大変有り難い。星川ナースの件も祐樹はこの2人の共謀か、もしくはどちらかの単独犯だと漠然と思っている。これは杉田弁護士の調査を待つしかないが…。  教授に命令は出来ない…しかし、もう少し一緒に笑い合いたい…というある意味矛盾した願望を彼に伝えるのはどうしたらいいだろうか?一番良いのは、彼が祐樹と同じ嗜好を持つ以上、ストレートに自分の気持ちを明かしてお願いするのが一番良い。それは頭では分かっているが、どうしても口には出せなかった。性格上の問題だろうか?  教授も今朝、彼からキスして来た以上は「そういう気持ち」が有るのだろうと思う。   が、彼は何も言わない。彼から言ってくれればこちらとしても自分の気持ちを開陳するのにやぶさかではないのだが…  なので、搦め手から攻めることにした。 「教授のお身体が完全に回復なさるまでは付き添いを承っています。教授は良くなったと仰られていますが、自己申告はアテになりません。阿部師長や内田先生が太鼓判を押してくれるまで、この部屋から通って戴けませんか?目を離すと病状が悪化した時に心臓外科は大打撃を受けますので…」  教授は複雑な顔をして形の良い眉を顰めた。「嫌なのか?」と思ったが、数秒の間を置いて唇を開いた。 「……そうだな…祐樹の職業意識に免じて、内田先生が良いと言うまではこの部屋にお邪魔することにする…」  少し湿った声だったのが気に掛かったが。紙袋から部屋で着るための新しいTシャツなどを取り出し、寝室スペースに置いた。 「洗濯くらいは出来ますから、着たものも置いておいて下さい」 「……しかし、迷惑では?」 「全く迷惑ではありませんよ」  強い口調で言い切ると、長い睫毛に縁取られた彼の目の光が穏やかさを帯びた。 「では、置いておく」  タクシーで病院に行く。祐樹はもちろん毎日の出勤は徒歩だ。彼の容態が心配なので車を使ったが、運賃は彼が手回し良く支払ってくれている。  2人してまず、救急救命室に寄った。花見や大学の新歓コンパや新入社員歓迎会も終ったこの季節は急性アルコール中毒などで搬送されてくる患者さんが少ない。また、気候も良いので脳溢血などの患者さんも。数が同じなのは交通事故だけだ。  教授は検査のために患者のエリアに連れて行かれる。祐樹はもちろんスタッフエリアだ。交通事故で搬送されてきた患者さんが居たが、それほど重篤ではないらしく阿部師長はのんびりした表情で隣に立っている。――ここの責任者、北教授とは会ったことがないな――と不意に思う。ウワサでは臨床(実際に患者さんを診ること)よりも論文に余念がないと聞いている。それでも教授会に出席する資格は持つ。ここで閃いた。  阿部師長の傍に行き、「折り入って話したいことが」と囁く。彼女ははにかんだような笑顔を祐樹に向ける。――杉田弁護士の話を期待しているのだな…――と思う。こちらの用件も昨日杉田弁護士から頼まれたばかりだ。 「教授の診察が終るまで何分くらいでしょうか?」 「30分有れば…何しろ保険適用外の高い薬も使って下さる患者様だから。お茶飲みに行く?」  頷いて歩き出す。彼女は白衣にカーデガンのままで、「30分くらいで戻るから。香川教授の検査結果が出てもあたしが帰らなかったら待ってて貰ってて。救急患者が搬送されたら電話して」と大声で言いさっさと歩き出した。  優先順位を的確に付けること…これは医師に限らずナースの基本だ。阿部師長は杉田弁護士のことを一番先に聞きたがると思った。が、祐樹の優先順位は教授の方が上だ。歩きながら話す。 「北教授は阿部師長のことを大変信頼なさっていると聞いていますが、本当ですか?」 「田中先生は心臓外科所属の医師だけど、ウチにも貢献度は高い。口外無用だけど、信頼…というより、あたしが居ないとココを存続するのは北教授の仕事になるのよね。でも、あの教授は自分の論文『大規模災害における医療』とか何とかいう題名の執筆で忙しい。だからあたしのことは信頼というか頼りにしているけど?」  葉桜の緑が眩しい道を歩きながら話した。 「以前、北教授は香川教授を評価されてましたが、そのお気持ちは変わってないのでしょうか?」 「変わってないわよ。田中先生がこっちに助っ人に来てくれてとても助かっているし。…それに以前、香川教授もこっそり手伝いしてくれたじゃない?上司だから漏れるわよね。やっぱり。で、さらに好感度アップ。でも何でそんなこと聞くの?」 「今度の教授会…香川教授の味方になって貰えないかと思いまして…」  ただし、教授会は色々なしがらみや、錯綜した思惑が渦巻く。北教授が個人的に香川教授を気に入っていても吊るし上げに参加する可能性はゼロではない。  そう思うと、焦燥感に駆られる。

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