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第七章 第20話
教授の手技が今まで実際見てきた中で最も完成度が高い…その事実に愕然とする。
「ほう…これが噂の…オペか・・・」
最初はいかにも気乗り薄な様子で、見学用の長椅子にだらしなく寝転んだままモニターを見ていた桜木先生が、身体を起こした。振り返ってその様子を視線の端で捉えた祐樹は、すぐに身体を反転させガラスで仕切られた最前列に視線を戻して彼の手技を見ていた。いや、見惚れていた。
教授の手術用手袋をはめていても隠せない、しなやかな指先が一流の芸術家のように動く。
初めて、香川教授の手術の様子をビデオで見た時とほとんど同じ…いや、それ以上かも知れない繊細な動きを奏でている。
「星川看護師が改心したのか?」
最初はそう思った。もともと彼女は手術室で断トツの動体視力と反射神経の持ち主だ。教授の動きについていこうとさえすれば出来る人材なのだから。
2人の動きにだけ注目する。
教授の手さばきには迷いはない。が、星川看護師は明らかに動揺している感じがする。
固唾を飲んで見ていると、明らかに彼女は微妙に道具出しのタイミングをずらそうとしている。が、教授はそのことを察知したかのようにずらしたタイミングで手を差し出す。
結果として2人の息は合っているように見えるだけだ。
祐樹も動体視力は良い方なのでそれが分かる。今まで自分が立ち会って来た手術は、教授が星川看護師の道具出しを待っているフシがあった。それが今回の手術では教授が主導権を握っている。
――そういえば、いつも手術の前には香川教授はちらりと自分の顔を見ていてくれたな――と今更ながらに気付く。何かに祈りを捧げるような表情で。
今回は祐樹が見学していることを知っているのに視線は一度も絡まることがなかった。祐樹はずっと彼を見ていたのでそれは確かだ。いつもの彼ならきっと一度は見学室に居る自分を見上げただろう。
それは何を意味するのだろうか…?
「噂には聞いていたが、これほどまでにエレガントな手術を…しかも相当難易度が高いオペなのに…悪性新生物の手術しか興味がなくて、見損ねたのが悔やまれる。この様子に『手術室の神様』の仇名を進呈したいくらいだ…。それもギリシア神話に出てくるような『神様』だな・・・『天使』でも似合いそうだが。大天使ミカエルとか…。」
いつの間にか、祐樹の横に立って食い入るように手術を見ていた桜木先生が感想を述べる。
「先生は、心臓外科には興味がないのですか?」
教授の手術の手際をインプットしながらそう聞いてみた。
「ああ、ウチは癌家系で、死んだ親戚のほとんどが死因は癌だ。だから、悪性新生物を除去出来るオペを極めようと思ったのが医師を志望した唯一の動機…」
話しながらも、二人の視線は香川教授の指先に釘付けになっていた。
今までの経験から星川看護師が故意にタイミングをずらそうとする瞬間は祐樹も有る程度は分かるような気がする。
「危ないな・・・」
そう危惧することも何回も有った。が、その時には既に教授の手にクーパーやペアンなどの手術道具が握られている。その繰り返しだった。
手術は香川教授の自己ベストを更新する勢いで終わった。黒木准教授や柏木先生の補佐なし――と言っても、対星川看護師に対しての補佐で、手術自体の助手は教授のアシスタントをつつがなく務めていたが――
患者さんの体内に心臓が戻され、自力拍動が開始する。
ふと、星川看護師の視線が見学室に注がれた。一瞬、祐樹に対して強い視線を送ったが、直ぐに打ちひしがれた眼差しに変わった。その隣に桜木先生の姿を認めたのだろうか?驚いたように目を見開く。
「終了」
マイク越しに香川教授のいつもと同じ冷静な声が聞こえた。
患者さんはCCU(手術用のICU――集中治療室)に搬送される。その後を黒木准教授が追う。
手術室に居た、星川看護士以外は安堵と賞賛の溜め息を吐いているのが様子で分かる。
その時、今日初めて教授は見学室に視線を上げた。
祐樹に目だけで微笑むと――口の回りはマスクで隠されているので彼がどんな表情をしているかは分からない――隣に立つ桜木先生を怪訝そうに見詰めた。
「素晴らしいとしか言いようのないオペだった。香川教授は悪性新生物のオペには興味はお持ちでないだろうな…。
ただ、もし癌患者に興味を持たれたのなら、俺の手技では敵わない…この病院で一番の手術屋だと自負していたのだが、その看板を下ろさなければならない時が来たようだ…。だが、俺は負けないぞ」
無精ひげを苛立たしげに数本引き抜く。
「今居教授には、どう報告をなさいますか?」
一番気になっていたことを確かめる。嫉妬のあまり悪口を言う人間も存在するので。
「香川教授の懐刀としてはそれが最も気になるところだろうな…俺は『オペの職人』という仇名が実は気に入っている。職人はひたすら自分の腕を磨く。自分よりも優れた才能を見せ付けられると、それを越えるために頑張るだけさ。俺の思った通りのことを報告する。実は今居のおっさんには借りがあったから出張って来ただけで…それでも気が進まなかったから始めは断った。すると、妥協案を出して来やがった。『オペを見学して思った通りのことを今日の教授会で言うだけでイイ』という、…な」
――教授の懐刀…そういうウワサがあるのは知らなかった――
教授の手術を手助け…というか、口出しをしたのでそういうウワサが流れたのだろうか?何となく嬉しい。
「ちなみに、今居教授に握られた弱みとは?」
彼のざっくばらんな口調と、手術に対する真摯な姿勢からツイ尋ねてしまった。
「学部の卒業がかかっている時…もし一単位でも落としたらダブり(留年)決定だった。その時の内科学、口頭試験の試験管だった今居のおっさんが俺のいい加減な解答にも関わらず単位をくれた。それだけの弱みさ。今となっては痛くも痒くもない。一応恩義は感じていたので引き受けただけだ。香川教授に伝えてくれ。『自分の手技よりも上を行く医師に会ったのは初めてだ。だが、絶対追いついてみせる』と」
悔しげに吐き捨てて見学室から出て行った。彼は出世には興味のない人種だろう。そうでなければ、医局に顔を出さず手術室にだけ居るという彼の行動が説明出来ない。
しかし、教授はどうしてあんなに完璧な手術が出来たのだろうか?
昼食を買ってから教授室に言って聞いてみようと思った、一刻も早く。
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