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第七章 第21話
そろそろ正午になる。大急ぎで白衣を脱いだ。昼食を買って教授に逢いに行こうとして。
コンビニのお弁当などが並べられている棚で考え込んだ。教授のために何を買うべきかと…。
サンドイッチを以前一緒に食べたことがある。だがもっと栄養価が高い物の方がいい。
そう言えば、祐樹が食べているものを教授は――それがどれだけ怪しげな食べ物であっても――食べてくれていた。
祐樹はサンドイッチよりもお弁当の方が好きなので、祐樹自身は少し物足りないか…と思う小さめの幕の内弁当に決定する。二つのお弁当を持ち、ついでに朝食に野菜がなかったのでサラダも買った。こちらは大きなサイズ――最近のコンビはサラダの種類も豊富だ。
大学に戻った祐樹は携帯で教授室の直通番号に電話した。先ほど一緒だった桜木先生は祐樹のことを「教授の懐刀」と表現した。となれば、二人の関係は――と言ってもまさか肉体関係までは露見していないだろうが――大学内ではかなりウワサになっているに違いない。
携帯電話を耳に当てながら大学に向かう。正門は目の前に見えていた。
受話器を取る音が聞こえたのでてっきり秘書かと思った。が、予想に反して教授の声だった。秘書が出るものと思い込んでいたので、一瞬言葉が出ない。彼の声を聞くと心臓がコトリと鳴った。
「もしもし?」
電話をかけたにも関わらず、一言も発言出来なかった。
怪訝そうな彼の声に我に返る。
「田中です。朝のお約束通り、昼食をご一緒にと思いまして…今からお邪魔してもいいですか?」
「もちろんだ。いつもはいきなり来るのに、電話してくるなんて珍しいな」
晴れやかな声だった。
「他の方がいらっしゃるとマズいかと思いまして」
「一人だ。だから……待っている」
「私は教授を待たせません。あと五分くらいでお邪魔出来ると思います」
何だか話しているとずっと声を聞きたくて通話を終えるのが、もったいなく思えてきた。そういう自分に正直呆れた。五分後には逢えるというのに…。
教授室が並んでいるフロアを歩いていると意外な人物に遭遇してしまった。内科の今居教授だ。多分自分の部屋から出て来たのだろう、扉を背にして歩き出した。見るからに不機嫌そうな顔をしている。祐樹は当然、教授の顔は知っているが、向こうは、一介の研修医しかも専門が違うので祐樹のことは分からなかったらしい。頭を下げた。それが教授に対する礼儀だ。どんなに反感を持っていようともそれとこれとは話が別だ。通常は、格下の者から頭を下げられたら会釈するのが社会でも、そして一種特殊な大学病院でも共通するマナーなのだが、彼は無視して通り過ぎただけだった。
香川教授の部屋の扉をノックして名前を告げる。
「どうぞ」
本当は名前を告げた段階で扉を開けたかったのだが、もし、電話を切った後で教授室に来客があった場合に不都合だと思い正式な手順を踏む。扉を開けた。
彼は満面の笑みだった。手術の達成感のせいなのかその笑顔はダイアモンドの粉でも纏っているかのように輝いていた。
笑顔を返す自分もダイアモンドまではいかないだろうが、金くらいには輝いているように見えて欲しいと不意に思った。
「手術、素晴らしかったです。惚れ惚れと見ていました」
コンビニの袋を応接セットの椅子に置くと、香川教授は執務用の椅子から俊敏な動作と立ち上がり、応接セットの方に歩いて来る。歩き方もしっかりしていた。
「有り難う。手術しながら祐樹の視線はずっと背中で感じていた。応援して貰っている気がしてもっと頑張れた」
テーブルにお弁当とサラダの包装紙を剥いで並べる。
「え?一回も視線が合わなかったので、集中なさっているとばかり思ってましたが…」
教授は珍しく肩をすくめる。アメリカ帰りにしては、外人がよくする動作をしない人なのだが。
「もちろん、集中はしていた。多分、今までの手術人生で一番集中していたと思う。初めて手術した時もあれほどではなかった。しかし、祐樹の存在はずっと感じていた…」
そんなに自分の存在を意識してくれたのかと思うと祐樹にしては珍しく胸が詰り、食欲まで減退した。
が、祐樹が食べないと彼も食べないだろうと思って、先に箸を取った。視線で促すと彼は頭を少し下げた。
「戴きます」
「今朝の手術は完璧でした。一緒にいた桜木先生も絶賛されてましたよ」
そういえば、香川教授は桜木先生をご存知なのか?と思う。
「桜木先生が?それは光栄だな…」
「ご存知でしたか?」
「もちろん。『手術室の悪魔』と呼ばれていて…密かに病院内では有名人だった。私も学生の時に手術を拝見して、その手技の華麗さに憧れていた…あの先生は癌しか手術しないから、今日祐樹の隣で姿を拝見して驚いた。本当にそんな評価を?」
少しくすぐったそうに、そして嬉しそうに笑う。どうやら桜木先生は香川教授の憧れだったらしい。自分で言うのも何だが祐樹も熱心な学生の1人だったが、学生の頃は聞いたこともなかった。その疑問をぶつけてみた。
「ああ、あの先生は出世とか名声とかに全く興味がない。実力でははるかに教授をしのぐし、執刀医も当時からしていたが、表向きの執刀医はいつも教授か当時の助教授の名前が使われていたので、学生まではその情報が回ってなかったようだ。私は救急救命室に出入りしていたので、その時に噂を聞いて手術を見に行った。こんなに凄い人がいるのだと感銘を受けたのを今も鮮明に覚えている」
「そうなんですか?しかし、桜木先生は、『大学一の手技の持ち主は香川教授だ』と仰っていましたよ」
そう告げると笑顔がさらに深くなった。
祐樹の箸の動きとシンクロさせるように教授は食べ物を口に入れている。
「今日の手術…あれは奇跡のようでした。星川看護師は妨害していましたが、何故あんな手術が可能だったのですか?」
「ずっと対策は考えていた。故意にタイミングをずらそうとすると・・・反射神経のような脊髄反射ではなく、頭脳で考える必要がある。頭で考えるとなるとクセが出る。道具出しのタイミングずらしも、一定の確率があると踏んでいた。その確率が読めれば、ずっとやりやすくなる」
何でもなさそうに言う教授に、改めて驚愕した。手術だけでも頭脳も集中力も使うのに、確率まで頭で計算出来たのか…。
「これも全て祐樹のお陰だ。ところで、内田講師と会ったのか?」
頬を僅かに染めて彼は聞いた。
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