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第七章 第22話

 箸を止めて彼は言った。 「内田講師はどういう意見だった?」  長い睫毛に縁取られた綺麗な瞳が不安げに揺れる。手術室で真剣な顔をしている彼の顔は怜悧で冷たい印象を与える。それはそれで気に入っていたが。2人きりになるといつの間の頃からかは定かではないが、自然な表情が垣間見える。そういう顔も少しでも長く見ていたくて。ワザと難しい顔を作り、さも深刻そうな声で言った。 「実はですね……」   いったん言葉を切り反応を窺った。教授の顔がみるみる曇る。憂い顔は長い睫毛が顔に影を作って、それはそれで観賞していたい顔になる。 「もう健康体だと仰っていましたよ…なので、教授会が終ってから一緒に大阪に行きましょう」  教授の表情が柔らかくなり、白皙の頬に桃色の血が上っているのが分かる。 「…そうなのか…良かった」  俯いて呟くような返事だった。まるで――祐樹はしたことはなかったが――初心な女子高生を誘っていると言った感じだった。 ――この人の男性遍歴は一体どうなっているのだろう?――  何回目かの疑問が頭の中に宿る。初めてでなかったのは確かだ。初めての男性が忘れられないとか?  自分の過去の行状は高い棚に放り投げて、嫉妬とはこんな感情かと思う。というのも、祐樹は嫉妬をしたことがないので。  内心を教授に悟られないように、話を手術のことに戻した。 「確率だけで、あんな手術が出来たのですか?」 「タイミングを星川看護師に合わせるしかないと思いついたのは、祐樹が部屋に招いてくれたからだ。それまでは彼女の道具出しが正直怖かったし、今までは最高のスタッフに囲まれて仕事をしていたので、『何故星川看護師は私に合わせてくれない』と正直怒ってもいた。  どうしていいのか分からなかった。術死は時間の問題だ思っていた。  こんなことを言ってしまって、祐樹は怒るのは承知しているが…、どうか許して欲しい。  祐樹が鍋を作ってくれたことが有っただろう…その時閃いた。私が星川看護師に合わせればいいのだと…。鍋も2人の共同作業だ。祐樹が料理に慣れていないのは包丁を扱う段階で分かってしまった…。私は祐樹の手料理なら何でも大歓迎なのだが…、それでも少しは不安だった。  だが、肉を鍋に入れた時にふと思った。『ありのままに受け入れて、私の知識を足せば上手くいくかもしれない』と」  祐樹も鍋は完全な失敗だったと思っていたので腹も立たない。それよりも教授が何を言うのかが興味が有った。  頷くだけで先を促す。教授は祐樹の顔を凝視して怒っていないかを確かめているようだった。苦笑して一言言った。 「あの鍋は…私も完全な失敗作だと思っていますので…」 「そうなのか?なら…続けるが、星川看護師のワザとずらす時の確率と、祐樹や柏木先生に叱咤されて、それでもタイミング外しの場合の確率、そして私の体調が悪かった時の3パターンのずらし方を一つ一つ検証し、どんなふうにずらすかを確率計算してみた。何秒ワザとずらすかの可能性が高いほうの…」 「計るとは?もう手術は終わっていましたよね?」 「私が記憶している限りの手術を再生して、それで時間を計った。で、その結果多分こう来るだろうな…という確率の高いものを今回の手術で咄嗟に判断し、その一瞬手前で手を差し出した。結果的には全部その確率通りで…助かった」  教授は自分が執刀した手術を全てビデオカメラのように記憶しているらしい。記憶力も良いのは知っていたが、まさかそんなにも緻密な記憶力だったとは…驚嘆を通り越して唖然とした。  彼の凄まじい才能を目の前にして、2人とも食べ終わった――サラダは教授に無理やり食べさせた――のを良いことに箸を置いてゆっくりと立ち上がる。  教授の隣の席に移動する。座るのももどかしく耳元で囁いた。 「立って下さい」  耳に息を吹きかけられて身体をひくりと震わせた彼だったが、耳を紅くして何も言わずに立ち上がった、祐樹の言葉に従って。  彼が立ち上がると、手を握って何も置いてない空間まで移動する。そしておもむろに抱きすくめた。 「素晴らしいです。天才なのは知っていましたが、まさかこれほどまでとは思いませんでした。教授に惚れました」  両手を彼の幾分細い背中に回し、身体を密着させて耳元で囁いてから、首筋に唇を当てた。痕が付かないように注意深く口付ける。  彼は祐樹のなすがままになっていた。というより、硬直しているといった感じだった。が、しばらく首筋にキスをしていると、ゆっくりと背中に腕を回す。 「秘書がランチタイムから帰って来るのは何時ですか?」  流石にこの状態を見せるわけには行かない。  熱を纏った教授の声がする。 「あ、あと、15分だ」  肩越しに時計を見ているのだろう。正確な時間を答えてくれた。  ちなみに、医師や看護師などは食事の時間は手の空いた時に食べるのが常識だ。が、秘書や事務の人間は普通の会社員と同じく食事休憩の時間はきっちり貰えるのが大学病院の不文律だ。 「そうですか…では、ここまで許して下さい。白衣のボタンは二つほど外してネクタイをはだけて…そしてワイシャツのボタンは三つ外して下さい」  具体的なボタンの数に何をされるか分かったのだろう。少し震える細くしなやかな指が祐樹の言った通りに動く。シャツの布地を絹が滑る独特の音が扇情的に聞こえる。  彼は鎖骨の上が弱い。その弱点が露わになる。  随分触れてなかったので情痕はうっすらとしか残っていない。それが理不尽なことのように思えた。舌で鎖骨を辿ると再び背中に回った手の力が強くなる。多分、祐樹の白衣の背中はシワが寄っているハズだ。  彼の最も感じる顎の下の鎖骨部分を強く吸い上げる。彼の背中がしなるのを感じた。  時間がないので、名残惜しげに身体を離して言う。 「元通りにして下さい。それが出来たら唇にキスをします」  先程よりも震えている指先が祐樹の言う通りに動く。 「良く出来ました。ご褒美です」  そう言って彼の薄紅色の唇を啄ばみ、一瞬歯を立てた。祐樹の頭に手を置いた教授が耐え切れないのか、頭を強く掴んだ。

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