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第七章 第23話

 その時、隣室の秘書室の扉が開く音が聞こえた。流石に長年佐々木前教授の秘書を勤め上げた経歴の持ち主だ。休憩時間から戻って来る時間は先ほど教授が言った通りの時間だった。  慌てると余計に不自然なので、ゆっくりと身体を離し応接用のソファーに腰を下ろした。  教授は立ったまましばらく目を閉じていた。その表情の変化を少しも見逃すことがないようにじっと見詰める。桜色に上気した頬や目蓋の色が徐々に元の色に戻る。  ――この人は、意志の力で何事にも…それが筋肉や血流すらも対処出来るのではないか?――  医学的には有り得ない錯覚を起こしてしまいそうな見事なまでの変化だった。秘書のマナーとしては有り得ないが、万が一秘書がノックなしに入って来たとしても、立ったままというのが少し不自然だが、2人がそれまで何をしていたのかは分からないだろう。  ゆっくりと目を開いた教授は僅かに潤んだ瞳に先ほどの抱擁の余韻を纏ってはいたが、よほど注意深く観察しなければ分からないだろう。優秀な秘書がまじまじと上司の顔を観察することは有り得ない。 「ただ今休憩から戻って参りました。御用はございませんか?」  隣室から声が聞こえた。 「田中先生が打ち合わせに来てくれているのでコーヒーを頼む」  教授が普段と変わらない怜悧な声を秘書にかける。 「かしこまりました」  普通、教授と一介の研修医が対面する時は、教授は執務用のデスクの前に座ったままで立っている研修医に言葉を掛ける。が、今の教授は――先ほどの余韻で足に力が入らなかったようだ――祐樹の向かいに辛うじて腰を下ろした。  ふと、今朝の教授の言葉を思い出す。 「もしかして、彼女のトラブルを彼女自身に耳打ちしましょうか?という私の提案を却下されたのにも理由があるのでは?」  聞き耳を立てたりはしない秘書だとは分かっているが、それでも念のため具体的なことは口に出さない。これは大学病院で生き残っていくためのちょっとしたテクニックだった。  コーヒーを置いて秘書は一礼すると教授室のドアを丁寧に閉めて、自分の控え室に入った。それを確かめて教授は続ける。 「もちろんだ。人間は動揺すれば普段と違う行動をしてしまうことは心理学的にも裏づけされている。もし、今朝の時点で、祐樹が彼女に耳打ちすれば間違いなく動揺しただろう。私なりに出した確率が大幅に狂ってしまう危惧があった。彼女が平常心でいるのが大前提の計算だからな。だから止めて貰った」  なるほどな…と思った。彼と話していると、祐樹は自分の考え抜いたことが子供だましのような気がしてくる。敵わないな…と思う。祐樹が唯一主導権を握れるのが「特別な触れ合い」だけだと思うと何だか悔しい。 「そう言えば、大学内では私は『教授の懐刀』と呼ばれているらしいですよ…私には光栄なことですが…」  圧倒的な才能の差を見せ付けられて――なまじ祐樹も自分に自信が有っただけに――これ以上、教授の才能の凄さを聞かされると落ち込みそうなので話題を変える。  教授が驚いた顔をする。潤んだ目がとても色っぽい。澄んだ瞳に水分のベールが薄く掛かっているだけなのに、彼から視線を外せない。  彼は嬉しそうに微笑した。 「私も以前から、祐樹を何かと頼りにしたかった。着任後直ぐにでも…。しかし、年齢はそんなに変わらないとはいえ、地位は随分開きが出来たので立場上からも迂闊に動けない。どうしたら良いのかを考えていた。始めは、嫌われて祐樹が医局を去って行くのではないかと懸念していたのだが。最悪の手術の時に、祐樹が助け船を出してくれた時は本当に嬉しかった。『懐刀』は手術の時のことが漏れたのだろうな…。だが、嬉しい」  潤んだ瞳で祐樹の目を真っ直ぐに見て言う。幾分はにかんだような笑顔を浮かべながら。そんな殊勝な言葉をかけられて祐樹が平常心を保てるわけがない。 ――もし、これが2人きりの場所だったら、即押し倒していたのに…―― 声をさらに小さくしてこっそりと囁く。 「教授会が終ったら、Rホテルまでご一緒しましょう。病院から2人一緒に出るのは、ウワサになりかねません。JR京都駅のホテルグランビィアは当然ご存知ですよね?」 「ああ、知っている。が、あのホテルには私が手掛けた患者さんやそのご家族が良く利用しているので、出来れば避けたい」  ああ、そうだったな…と思う。香川教授と話していると祐樹は自分が馬鹿に思えて仕方がない。  それともいつもの自分とは違うのか?とも思う。二人きりの場合のみだが。  教授との話の途中で、秘書が置いていってくれたコーヒーを飲む。すっかり冷めていたが、良い豆を使っているのか、それとも秘書の淹れ方が上手なのかとても美味だった。  祐樹がコーヒーカップを持ち上げると、教授もコーヒーカップに手を触れる。祐樹が秘書のエリアでコーヒーカップを探しても、なかったという経験があった。秘書は秘書なりの収納方法があるのだろう。  すると、教授はすっかり冷めたコーヒーを一瞬の間で飲み干してしまった。 「もしかして、咽喉が渇いていましたか?」 「ああ」 「良かったらこれも飲んで下さい。ただ、どうして運ばれた時に飲まなかったのですか?」  一口しか飲んでいないカップを差し出しながら疑問に思う。 「祐樹が飲むまで待っていようと思った……」  おかしなことを言う人だな・・・と思った。飲み物を飲む順番は地位が高い人からと決まっている。  教授は祐樹から受け取ったカップを外から眺め、一回転させる。そして、ある一点で止めた後コーヒーを飲み干した。教授が口を付けたところは、祐樹の記憶に間違いがなければ自分が唇を付けたポイントだった。直接キスがしたいと唇がうずうずするのを感じた。

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