168 / 403

第七章 第24話

 白くしなやかな指がコーヒーカップに絡みついているのを見て、自分の身体にも触れて欲しいと情動がこみ上げる。が、場所が場所、時間が時間だ。不埒で不謹慎な思いを頭から振り払おうと努力した。  その時卓上の電話が鳴り、直ぐに止んだ。その直後秘書室と教授室の境目のドアからノックの音がした。 「どうぞ」 「黒木准教授からお電話がかかっているだけですので、ご報告だけです」 「分かった。出る」  そう言って、教授は自分の執務机に歩み寄った。どうやら、秘書室の電話と教授の電話は連動しているらしい。いつもは秘書が居ない時間にこの部屋を訪れているので気付かなかった。  電話では当たり前のことだが、教授の声は聞こえても、黒木准教授の声は聞こえない。 「分かりました。では、十分後に。お待ちしています」  静かに受話器を置くと教授は祐樹の方を見た。 「黒木准教授も教授会のことを心配してくれて、ここに来るそうだ。祐樹も一緒に居るか?」  一緒に居たいのはやまやまだが、黒木准教授は教授の補佐的存在だ。その席に一介の研修医の自分が居たのでは、黒木准教授がいくら温和な人柄とはいえ気を悪くするかも知れない。 「いえ、遠慮します。教授会の前にまた顔を出しますよ」 「そうか…」  伏目がちになって教授が言う。 「では、私は後ほどお邪魔しますので」  仕事とプライベートは分けて考えるべきだという理性がこの時には勝った。昼間の教授室での抱擁は…感情がはるかに勝っていたが…。あれは、教授があまりにも素晴らしい手術したことで気分が高揚したのだと……そう信じたい。  そういえばどさくさ紛れに「惚れた」と言ってしまったが、教授はどう受け取ってくれたのだろうか?と思う。祐樹にしてみれば、今までにいわゆる「告白」をしたことがなかったので、本当は「愛している」と言いたかったのだが。どうしてもその言葉が発音出来なかった。それで咄嗟に「惚れた」と言い換えたのだ。しかし、この言葉は二重の意味を持っている。「手術の腕前に惚れた」のだか、「彼自身に惚れた」のだかが曖昧だ。教授はどちらの意味に取ったのだろう…。後者に取ってくれればいい・・・。  そんなことを考えて教授室の並んでいるフロアを歩いていたので、目の前のドアが乱暴に開かれたことに気付くのが一瞬遅れた。自分で言うのも何だが、反射神経も視力も良い。  そのためあわやドアに激突という事態は避けられたが、後ろに飛びのいてしまった。  このフロアは静寂が支配しているフロアだ。こんな乱暴なドアの開け方をする人間がいるとは…と、半ば感心してその人物を見ると、手術見学室で知り合いになったばかりの桜木先生だった。 「お、悪い。怪我はなかったか?」  ちっとも悪いとは思っていない表情と言葉だった。 「ええ、大丈夫です。それよりも先生がどうしてここに?」 「理由はここでは言えないな…。ハラが減っている。食堂に付き合えよ。香川教授と関係の有る話だし」  相変わらずの傍若無人さだったが、不思議と腹は立たない。それに教授の話となると聞いておいた方が絶対によい。そういえば祐樹も教授に付き合って昼食は普段自分が食べている量からすれば、かなり少なかった。胃の容量にも空きが有る。 「いいですよ。喜んで」  病院の最上階には、医師と患者両方が使える食堂がある。患者はもちろん食餌療法に制限のない患者に限られるが。それと見舞い客もここで食べて行く人は多い。というのも医師などのスタッフのために作られた食堂なので、街中で食べるよりは遥かに割安で、味もそこそこだからだ。  ただ、不文律のように医師などのスタッフが座るエリアと患者さんや見舞い客が座るエリアが画然と分かれている。一般のレストランなどで「喫煙席」と「禁煙席」が分かれているのと同じようにだ。  シワだらけの白衣を着た桜木先生と2人で、他の医師からは聞こえないと思われるテーブルに座った。桜木先生は見るからに不機嫌そうだった。彼が出て来た部屋は確か今居教授の部屋だったように思う。 「『香川教授の懐刀』としては是非とも入手したいネタだろう…だから当然オゴリだよな。割り勘なら俺は話さない」  彼のことは何でも聞いておきたかったので――しかもこの食堂の値段は研修医の給料でもリーズナブルだ――。 「いいですよ。何でも注文して下さい」 「おっ、太っ腹だねぇ。気に入った。じゃあ、ステーキ定食といってみよう」  祐樹はキツネうどんを注文した。いくら安いとはいえ、ステーキともなると値段は張る。うどんが一番安い。研修医の給料は世間の人が考えているほど高くはない。  流石は「手術室の悪魔」と呼ばれているだけあって、ステーキの肉を切る動作は見事なものだったが、口に放り込んで咀嚼しないまま話すので行儀が悪いことおびただしい。 「実は、今居のおっさんに頼まれた件、俺の見たままを証言すると電話で話した。すると、内科の教授のクセに俺のネグラにしている外科の宿直室まで怒鳴り込んで来た」  そういえば、香川教授の部屋を訪ねた時に不機嫌そうな今居教授とすれ違っている。時間的にはピタリと一致する。 「それで?」 「教授のオペの感想を夕方の教授会で……けなして欲しいという依頼だった。俺は職人だ。当然突っぱねた。すると今度は教授室に来てくれないか?と下手に出た。今日の手術は新人でも出来る手術だったので出向いた。すると『この病院で出世したくはないかね?』と猫なで声だった。俺は出世には興味はない。癌――いや、悪性新生物か。その手術が出来ればそれで良い。そう言うと、『では、教授会には出席してもらわなくても結構だ』と言ってきた。今居のおっさんには愛想が尽きたので、ドアを力一杯開けたら、お前さんが衝突し損ねたわけだ。どうしても香川教授を非難したいらしい」  桜木先生らしい行動だったが、教授会では香川教授の援護が出来なくなる。桜木先生は外科なので内科の今居教授を怒らせたところで痛くも痒くもないのだろう。  ふと「今居教授」という固有名詞に聞き覚えがあるような気がした。それも香川教授絡みで、良いことではなかった。香川教授の着任以来、目まぐるしい日々が続いている。そのせいで、香川教授レベルには程遠いながらも記憶力は自信があったが咄嗟に思い出せない。  その件は後でゆっくりと思い出すことにする。しかし、桜木先生が参考人として教授会に呼ばれなくなったのは事実のようだ。大丈夫なのか?と強い危機感を覚えた。

ともだちにシェアしよう!