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第八章 第1話

 改めて周囲を見渡して、知った顔がないか確かめる。  教授会は名称の通り、「教授」しか基本的には出席資格はない。無駄とは思いながらも、一応は念押ししてみる。 「では、桜木先生が出席なさることは…?」 「今回の座長である今居のおっさんが、『出るな』と言ったんだ。一介の医師ではムリだ。そりゃ、俺だって、香川教授のオペの素晴らしさは語りたいが…こうなるともうお手上げだ…。こういう時は、偉くなっておけば良かったと思うが…。後の祭りってヤツだ。  まぁ、教授会には処分の権限はないから、どうせ齋藤医学部長が帰国されるまでは香川教授が一時的に吊るし上げを食うだけのハナシだ。それにアメリカから香川教授を招聘したのは齋藤医学部長だから、メンツにかけて、教授を庇うだろうよ、齋藤医学部長は。じゃなきゃ、自分にも火の粉が降りかかるからな…」  豪快な調子でステーキを咀嚼して肩をすくめた。  が、香川教授の手術は今回こそ上手く行った。それは彼の確率計算を星川看護師が読み切れてなかっただけで、彼女も並外れた動体視力と反射神経の持ち主だ。午後に香川教授の手術が急遽キャンセルされたせいで連動して彼女も午後はフリーになったに違いない。  不意に自分を見上げた彼女の憤怒の瞳を思い出す。勝気な彼女のことだから、多分一回の失敗で打ちひしがれることはないだろう。新たな対応策を考え出す可能性は否定出来ない。 「今居教授は何故、香川教授のことをそんなに敵視するのでしょうか?」 「そんなことが心臓外科の門外漢に分かるかよ。聞くなら内科の人間か、香川教授にでも聞け。あ、コーヒーもう一杯いいか?」  どうやら、奢って貰うチャンスはとことん利用する人のようだ。苦笑してどうぞと頷いた。 「お、太っ腹だねぇ。じゃあ、俺も取っておきの情報。基本的にウチのオペは内科からの要請で受ける。内科主導でこちらは『切らせて戴く』といった立場だ。  だが、香川外科には内科が絡んでいる。有能な美人内科医が外科医として勤務していることは周知の事実だ。一度ご尊顔を拝してみたいものだねぇ。  さて、今居のおっさんは縄張り意識が強い。おまけに一回受けた屈辱は倍返しがモットーだ。こう言えば分かるだろ?」  今朝すれ違った時の今居教授の顔が脳裏に浮かんだ。 「『屈辱は倍返し』って良くご存知ですね…」  新しく運ばれて来たホットコーヒーを、アイスコーヒーを飲むように胃の中に流し込む桜木先生に聞いた。 「あのな、俺がどれだけ宿直室のヌシをやっていると思うんだ?あそこはウワサ話の宝庫だぞ?」 「私も宿直室の泊まり込み日数では負けていませんが…知りませんでした」 「そりゃ、キャリアの差だな…宿直室で爆睡してても、ウワサは収集出来るようになるのが大学病院で生き残っていくコツだ。俺だって、出世には興味がないが、この病院でメスを握れなくなったら困る。自分に関係のある悪意のウワサくらいはチェックしてるぞ。  見たところ、お前さんは出世には興味なさそうだが、ココには残りたいと思っている。違うか?」  単なる手術職人かと思っていたら、そうでもないらしい。人間観察も見事なものだ。  祐樹も教授と知り合う前は――出来れば出世したい――と考えていたが、最近は教授の補佐が出来れば、自分の手技を磨くことも出来るし、それ以上に彼の役に立ちたいと思っている。自分の出世はどうでも良くなった。 「違いません…。今居教授は長岡先生が実は内科医だから怒っておいでなのですか?」  無精ひげに覆われた表情が笑いの形を浮かべた。 「あくまでもウワサだ。今居のおっさんの真意が知りたくば、内科の人間に裏を取れ。この病院では、誰かが無責任に流している、カタカナの『ウワサ』と、本当のことが流れている漢字の『噂』の二種類あるからな…。これがステーキセット、プラスコーヒー代の情報だ。っと、そろそろオペの仕上がり具合をチェックしなきゃなんねぇ。ご馳走様」  時計を見て慌てて立ち上がり、食堂を出て行った。  桜木先生のアドバイスに因ると、長岡先生が香川外科に居ることが今居教授の逆鱗に触れたようだが、本当だろうか?  しかし、香川教授がアメリカから長岡先生を連れ帰るに当たり今居教授が怒ったという件は以前聞いたことがあった。祐樹の知る限り、長岡先生は香川教授の手術患者のコントロールはしているが、内科自体には口出ししていない。   その上、香川教授は内田講師のように内科の先生も拒んではいない。それでも今居教授はご立腹なのだろうか?  内科と聞いて、一番に思い出すのは内田講師だ。彼なら今居教授の性格なども良く知っているに違いない。が、彼は診療業務もしている。今すぐにでも意見を聞きたいところなのだが…。  彼が診療しているのは何曜日なのかを知らなければならないな…医局のパソコンで調べてみよう。そう思いながらも、医局に行くと山本センセなどに会うのは気が進まない。医局に行く前に唯一の受け持ち患者、鈴木さんの容態を診てからにしよう…と思った。  鈴木さんの病室に顔を出すと、祐樹の日ごろの行いが良かったのか…(と言っても、最近は香川教授のことにかまけてばかりだが)鈴木さんと話している内田講師の顔が見えた。  どうやら、内田先生の外部診療日は今日ではないらしい。 「これは、田中先生…鈴木さんの手術の有無は決まりましたか?」  心配そうに彼は聞いてきた。鈴木さんも縋るような眼差しで祐樹を見ている。 「いえ、教授は検討中です。それに、鈴木さんは手術をご希望ではないのですね?」 「こんな立派な教授に執刀して戴けるのは光栄なのですが、実は手術が怖いのです…」  申し訳なさそうに鈴木さんは言った。確かに手術、それも心臓の手術となると二の足を踏む人間は多いだろう。 「香川教授は総合的に判断なさると思いますよ。鈴木さんのご要望はお伝えします」  そう言って、内田講師に「付いて来て下さい」という意味の目配せをして病室を出た。  先ほど気にかかっていた今居教授の件を人の居ない場所で確かめる。 ――最悪だ――  そう思った。

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