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第八章 第2話
他人に聞かれずに話しが出来るところ…それは、病院内では有りそうで無い。
内田講師の肩書きは「講師」なので個室を持つ地位には居るが、彼の個室は内科エリアだ。外科の祐樹が入って行くと、内田講師はともかく、ナース達や他の医師達の思惑や視線が気になるので…遠慮したい。
となると、以前祐樹が香川教授の手術ビデオを隠した視聴覚室辺りか…と思う。
昼間は仮眠に訪れる医師も居ないので。
「視聴覚室はご存知ですか?」
「ええ、もちろん」
「では、先にいらしていて下さい。もし内部に他の先生がいらっしゃったら、外でお待ちくだされば…」
「分かりました。お待ちしています」
先に立って歩く内田講師を見送って時間つぶしも兼ねて鈴木さんと話をする。
「香川教授の手術の腕前は存じております。が、やはり手術が怖いので…それに、私は今まで必死に働いて来ましたので…家族にも充分な金額を残せたと思います。快癒しなくても、薬でだましだまし入院生活を送る一生も悪くないと思えて来ました…」
確かにそういう選択肢もあるだろうな…と祐樹は思う。医師と患者さんの話し合いで手術が行われないのは流行りのインフォームド・コンセント(納得と同意)だ。
「私の一存では決めかねますので、教授と良く話し合います…」
そう言うと、鈴木さんは深深と頭を下げた。鈴木さんがどういう職業に就いていたのかは、忙しさに紛れてじっくりと見てはいないが、かなりの地位だったことが分かる動作だった。
「では、教授にその旨をお伝えいたします。お大事に」
そう言って病室を出た。
廊下を歩きながら、桜木先生の見事な、ある意味下品な食べっぷりを思い出し、食後のコーヒーだけでなく、デザートも奢ればもっと話してくれたかも・・・と苦笑した。
視聴覚室の扉の前で立ち止まり、中の様子を伺う。在室しているのはどうやら1人のようだ。こっそりノックをすると、内田講師の返答があった。
「香川教授のご厚意で鈴木さんの容態が拝見出来てとても感謝しています」
内科医に相応しい温和な笑みだった。
「いえ、やはり長い間患者さんを診られていれば当然だと思います。
ところで、ここだけの話なのですが、今日の教授会について何か聞き及びでは有りませんか?」
以前話した雰囲気から内田講師はそれほど今居教授を尊敬していない様子だったので単刀直入に聞いてみた。どちらかと言うと香川教授の方にシンパシーを持っているようなので。
温和な表情が一変し、厳しい顔になった。
「これもここだけの話ということで…今居教授は前回、医学部長兼病院長決定の選挙の時に齋藤医学部長に敗北されています。まず、その時、齋藤医学部長サイドから露骨な選挙運動をされて足を引っ張られたという恨みが…」
そういえば山本センセが「選挙の時に随分、表沙汰にはならない協力をした」と酔いに任せて言っていたな…と思い出す。金銭なども動いたのだろう。
「しかし、それは過去の話ですよね?」
香川教授とは何ら関わりはない。怪訝そうな顔をしたのが分かったのだろう。
「自分の上司を悪く言うのは気が引けますが…恨みは一生忘れないという方です。そして、香川教授がアメリカから帰国なさる時に長岡先生を連れて帰国するという打診が有った。その時の教授は怒り狂っていらっしゃいました。外科が内科のことをするのは内政干渉だ、などと。齋藤医学部長のお部屋に怒鳴り込むやら、メールをしつこく送りつけるやらで…。もちろん医局でも吠えていらっしゃいました。
『内科は内科のやり方がある。それを外科の教授に内定しているからと言って内科医を連れて来るのは斉藤医学部長の差し金に違いない。ゴット・ハンドという名前は大層だが、結局は齋藤医学部長の操り人形に違いない。そんな人間に教授を名乗らせるとは言語道断』と…」
とても言いにくそうに内田講師は語ってくれた。多分、祐樹の気持ちを察して表現は控えめに言っているのだろうな…と思う。
「…そうなのですか……では、齋藤医学部長への恨みつらみが、不在の齋藤医学部長の代わりに今日の教授会で香川教授に向けられると?」
今居教授は齋藤医学部長と確か同じくらいの年齢のハズだ。教授が偉くて、大学病院は潰れないという固定観念を持って居てもおかしくはない。特に現在50代の教授は縄張り意識が濃厚だ。激変する社会情勢には関係なく「象牙の塔」でささやかな権力争いに全力を傾けている教授も多いと聞いている。
とても残念そうな吐息を吐いて内田講師は頷いた。
「もちろん、香川教授は、病院の採算が取れるように頑張っていらっしゃることも、長岡先生が我が『内科』に口出しなさってないことも…心ある内科医は皆存じています。そして密かに応援しています。
ただ、教授だけはそういうことを度外視して一方的に敵視なさっていることは事実なのです…」
「では、縄張りを荒らされたという点と、齋藤医学部長への恨みが今日香川教授にぶつけられると?」
暗澹たる気持ちになった。特に彼がどれだけ神経をすり減らして職務に励んでいるかを知っているだけに。言葉も出ない。
「誠に残念ですが…その蓋然性が高いことを前もってお知らせしていた方が良いかと愚考しました…」
内田講師の顔も暗い。香川教授が前もって心の準備をするために、敢えて身内の恥というべき今居教授のことを教えて下さったことは理解出来た。
本当に香川教授は教授会を乗り切れるのだろうか?体調も回復したとはいえ、万全でないだけに不安は募るばかりだった。
桜木先生の情報は正しかった。本当に乗り切れるのだろうか?
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