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第八章 第3話

 内田講師と別れた後、お気に入りの喫茶店に入り、煙草に火を点ける。紫煙を肺一杯に吸い込んで――肺癌や肺気腫のリスクは充分知っていたが――少し気持ちを落ち着かせる。  煙草には精神を安定させる作用があるので。煙草はすぐに灰になり、せかせかと二本目に火を点ける。祐樹は考えに沈んだ。  香川教授率いる心臓外科…通称「香川外科」は手術専門で外来患者の診療業務は一切ない。尤もこれは手術を売り物にしている外科では皆そうだが…。  仕事内容は入院患者さんの診察と治療、そして手術だ。この病院の研修医は少ないながらも患者さんの受け持ちをする。それ以外は他のベテラン医師の補佐だ。  祐樹は午後の手術スタッフに名前がリストアップされていたので勤務シフトでは「手術」となっていた。が、香川教授の体調を憂慮したのだろう、黒木准教授が午後の手術をキャンセルしたために時間が空いた。  桜木先生と内田先生の言葉を教授に伝えるかどうか、少し迷った。が、今居教授は間違いなく香川教授への攻撃をするだろう。知らないままで会議に出てイキナリ思いも寄らない角度――香川教授は、手術の件で攻撃されると予想しているのだから――からの奇襲攻撃を受けるとさしもの教授でも上手く切り抜けられない可能性もある。  やはり、報告すべきだと思い教授室に電話してみた。  秘書が出たので、香川教授が在室か?と、お1人か?と確認した。ついでにこれからのアポイントメントの有無も。  教授室に1人でいるらしいので電話を替わってもらう。 「祐樹か…」  心なしか弾んだ声で返事があった。 「お話があります。とても重要な…。秘書の方に伺ったのですが、午後はお一人で過ごされるのですよね。五分後にお邪魔しても構いませんか?」  しばらく無言だった。少し強張った声で返事がある。 「……ああ、構わない。待っている」  どうしてあんな強張った声をしたのだろうか?と思いながら教授室へ急いだ。  名前を名乗り、ノックする。が、いつもと違い返答には少し時間が掛かった。 「どうぞ」  応接セットを手で指し示す教授の顔も強張っている。黒木准教授が祐樹の前に訪問していたことは知っていたので、そのせいかとも思った。  ソファーに向かい合って座る。本当は隣り合って座りたかったが、勤務時間内でもあり、秘書も隣室に居るのでそんなことは出来ない。  秘書がコーヒーをトレイに入れて持ってくる。その時、ソファーの肘掛けに置いた教授の手が震えていることに気付いた。 ――この人は、「重要な話」を2人の関係のことだと思っているのではないだろうか?――  覚えている限りでは、彼は自分絡みのことでしか手の震えはなかったハズだ。  安心させる意味もあって、飛び切りの笑顔を浮かべた。多分自分の瞳には彼に対する好意の色が混じっているに違いない。  その瞳を見た彼は、吐息を零した。手の震えも治まっている。  秘書が自室に戻ったのを確認してから、笑いを含ませて言った。 「重要な話・・・を私と教授の件だと思われたのですか?」 「……ああ」 「違いますよ。教授会の件です」  そう言うと、彼の頬が少し上気して薄紅梅色になった。彼を取り巻く状況を一瞬忘れて、彼が祐樹の言動に左右されることに喜びを感じてしまう。 「あれから桜木先生と内田先生にお話を聞くことが出来ました。今回の教授会を仕切る今居教授は教授のことを良くは思ってらっしゃらないようです」 「そうなのか…。まぁ、理由は察しがつくが」 「先に申し上げても構いませんが、教授のお考えを知りたいですね」  美しさに重点を置く画家が精魂込めて描いたような白い綺麗な指でコーヒーカップを持った教授が答えた。 「多分理由は二つ。最大の理由は本来、内科医の長岡先生を連れて帰って来たことだろう?あの教授は縄張り意識が強いからな」  この大学病院生え抜きの自分でさえ知らなかったことを彼が知っていたことと、正確に理由を言い当てたこととで二重に驚いた。彼はこの大学を卒業してすぐにアメリカに行っている。噂を聞く機会がないという点では祐樹以上なのに。 「良くご存知ですね、その通りです。でも、それを何故ご存知なのですか?」 「医学生の頃、救急救命室に出入りしていたのは以前祐樹にも言っただろう?その時に現役の医師と仲良くなり、色々噂話をしてもらっていた」  成る程な…と思う。 「では、もう一つも、その先生からの話で類推されたと?」 「ああ、多分合っていると思うが、私は表向き齋藤医学部長からの推薦で教授の椅子を手に入れたことになっている。医学部長と今居教授は犬猿の仲なのは、私が学部生の頃から有名だから…。私が齋藤派だと思い込まれているのだろう…な。私自身は派閥争いには興味がないが、今居教授や齋藤医学部長は派閥に重きを置いている」  ことごとく当てられて、祐樹はここに来た意味を見失ってしまった。彼の明敏さは知ってはいたものの。 「正解です。そのことをお知らせに参ったのですが…どうやら無駄足でしたね…。私が教授のお時間を無駄にしたようで申し訳ないです」 「いや、嬉しかった。祐樹が私のことを心配してくれたからこそ来てくれたのだろう?それに勝る喜びはない。折角来てくれたのだから、薬の量は大分減ってはいるが、注射をお願いする」 「私で役に立つならば喜んで。それで…対応策は考えていらっしゃるんです…よね?」 「もちろんだ。長岡先生をワガママ承知で連れ帰ったのは私自身の判断だ。自分で蒔いたトラブルは自分で解決する」  潔い瞳でキッパリと言い放った。その瞳の輝きに魅了される。注射は済んだが、教授もそれほど用事がないらしく他愛のない話をしていた。彼と話していると時間を忘れてしまう。 「そろそろ教授会ですね。携帯電話、通話状態にしておいて下さい」  そう言って辞去しようとすると、後ろから手を掴まれた。 「教授会の前に勇気をくれないか?」  そう耳元で囁かれる。  思いの丈を思い知らしめるような甘く激しい、そしてどこか遣る瀬無い口付けを交わした。このまま呼吸だけではなく肉体も溶け合ってしまえば良いのにと思った。

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