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第八章 第4話 教授視点
田中祐樹が昼間のキスを済ませて教授室を出て行った時、香川聡は頭の中に薄桃色のベールが掛かったような気持ちでソファーに座り込んだ。
――昼間のキスは、アルコールよりも効く――。
そう思って時間を確認する。教授会までまだ時間がある。秘書に内線電話をし「考え事をするので教授会が始まる10分前までは誰にも取り次がないで欲しい」と言った。
自分にとって驚愕と驚喜の日々を回想していた。
酔ったフリをして抱かれたあの日、――これで、一生分の思い出が出来た――と純粋に嬉しかった。
何しろ、ずっと好きだった相手に抱かれたのだから。自分のあまり上手とは言えない誘い方とはいえ。
自分のほとんどゼロに近い恋愛体験を内心恥じていた。
それに、彼は他人に対する面倒見が良いということも知っていた。酔って上手くもない挑発に彼が乗って来たのも不思議だが、それも「彼の面倒見の良さ」の発露に違いないと、そう思った。
ほとんど初体験に近い体験では、ベッドの上で色々意地悪なこともされたり、言われたりしたが。言っているのはずっと胸の奥に住まわせてきた、あの田中祐樹だと思うと怒りは全く覚えず、悦んでいる自分に驚いていた。多分、他の相手なら喜悦は感じなかっただろう。ほの暗い背徳の悦びに全身に電流が走ったような気がした。
少しまどろんだが、横にあの田中祐樹が寝ていることを自覚すると嫌でも興奮する。寝ている時間が勿体ないとまで思ってしまった。
ずっと寝顔を見ていたいと思って枕に片肘を付き、彼の寝顔を眺めていた。こんな機会はもう一生訪れることがないのだから。
眠っている彼は、随分印象が変わる。いつも少し意地悪そうに輝いている瞳を閉じると柔和といって良い顔になる。自分が憧れてきた生命力の強さを感じさせる雰囲気は纏っていたが。
フト彼は身動きをする。目蓋も動いていたので目覚めは早いのでは?と思うと、じっとしていられなかった。
朝早いのは承知で起こしてみた。――起きた直後だと、ホンネが垣間見れるか?――と思ったので。
多分、後悔にまみれた顔をするのだろうな…と覚悟して起こした。「一回きりでもいい」と思って抱いて貰っただけに、後悔する顔を見られればそれで諦めも付くだろうと思った。
が、予想に反して彼の顔は穏やかだった。
そのことにまず安堵した。昨夜の情事の痕跡を仕事に持ち込むわけには行かない。慌ててしまった自分に、テキパキと指示をくれる祐樹に惚れ直した。
気持ちを押し隠すのに慣れていたが、この時ばかりは調子が違った。つい、ホンネに近いことを言ってしまったのは、ホテルをチェックアウトする時だった。
クラブ・フロアの眺望は確かに素晴らしかったが、自分1人で見るほどの価値がある景色だとは正直思ってもいなかった。が、祐樹と一緒なら何度でも見たい。そのことを言うと何でもないように、「今度」という言葉が田中祐樹の口から漏れた時は驚愕した。自分の体験の少なさもあって、彼を満足させたとは到底思えなかっただけに。
本当に「今度」はあるのか…?正直半信半疑だった。話の流れでそう言っているだけかも知れない。もし、そうなら期待させないで欲しいと切実に思った。
京都行きのJRの車内でそっと手を重ねたのは田中祐樹の本心が知りたかったからだ。自分をどの程度まで許容しているのか計ってみたかった。公共の場所で手を払いのけるなら、彼はそんなには気を許していないと考えた。が、振り払われるようなことはなかった。
2人で取り決めた淫靡な合図を思い返すと頭の中がどうにかなりそうだった。あれほど希求した田中祐樹がまた会ってくれるのだから。
手術室で彼が庇ってくれたのは、第一に正義感からだろうが。それでも背骨に走る喜びは到底言葉には出来ないほどだった。患者さんの生命を第一に考えているという点では聡も同じだったから。
手術室で彼がサポートしてくれただけでなく、内心で一番厄介だと危惧していた星川ナースの件で祐樹が佐々木前教授の家まで行ってくれたことや、弁護士の杉田先生を紹介までしてくれたこと、それも胸が一杯になるほど幸福だった。特に杉田先生に会いに行った「グレイス」では、男性客から――自分を隠す意図は分からなかった・・・自分の価値は手術室にしかないと思い込んでいたので――庇ってくれたのも理由は分からないまでも胸が快くザワめいた。
これまでの過労で倒れた時も、親身になって看病してくれようとしてくれたのも驚愕すべき事態だった。
そこまでして貰う価値は自分にはないと思っていたので。
ただ、自宅に呼ぶのは絶対に避けたかった。自宅に呼んでしまうと、彼の存在が絶対に自宅に染み付いてしまう。そうなると彼の不在が耐え切れなくなるのは明白だ。
まぁ、今の自分には経済力もあるのでマンションを引っ越せば良いだけの話なのだが…。
彼の自宅はお世辞にも広いとは言えなかったが、男性にしては平均点くらいに片付けられており、他の男性の影は全くない。そのことにまず安堵した。比較的自分の家に帰れる自分と違って、病院に泊り込む田中祐樹の部屋は掃除をする時間が有り余っているわけではないので、もっと乱雑なのかと思っていた。――ただ、どんな滅茶苦茶になっている部屋でも、彼の部屋だということで全てを許したに違いないことは確かだが――。実際は大学の時レポート作成で訪れた同級生の部屋よりも遥かに綺麗だったのだが。
彼に看病されるのは、恐縮ではあったが歓喜がそれを上回った。
――自分のために何かをしてくれる――そういう存在が今まではなかったので。
ただ、鎮静剤の副作用で自分の本音が零れてしまうのは、彼に迷惑が掛かると思い困惑したが…。
彼は持ち前の面倒見の良さから自分を放って置けないだけだろうから…。
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