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第八章 第5話 教授視点
そういえば…とぼんやり考える。
学生の頃彼に特別な感情を持ってしまったのは、誰とでも臆せず話し、快活に振舞う行動や、その生命力の溢れた目のせいだった。
誰とでも臆せず話せるのは彼の育ちのせいかと思っていた。それが違うと分かったのは杉田弁護士と星川ナースの件を相談しに行った和食の店のことだった。
彼は意外なことに自分と同じように金銭的には恵まれて育っていないと言っていた。それなのに、あんな自信に溢れて友人と話していたのか…。もともとの性格が屈託ないのだろう、自分とは違って…そう思うとますます憧れが募った。
憧憬と愛情の二つの気持ちから、彼の特別が欲しいと思った。では特別とは何だろう?と考えた。
確かにセックスは一回した。が、モテる彼のことだ。誘惑には事欠かなかったハズだし、事実、聡も一回現場に遭遇したこともある。一回のセックスごときで彼が心を動かすとも思えない。特に自分が相手では。
彼の名前を呼んでみたいと思っていた。Rホテルでの一夜の後、何度か呼びかけようと努力はした。が、実際呼ぶとなると聡にとってそれはとてつもなく勇気のいることだった。いっそのことバイバス手術を並行して二例する方が簡単だと思うくらいに。
彼の淫靡な誘いがそのチャンスをくれたとのが切っ掛けだったとは自分でも笑える。阿部師長に星川ナースの替え玉として杉田弁護士の元に行って貰えないかと頼みに行き、その帰り道で、彼が「部屋を見たい」と言い出した時のことだった。見られて困るような物は何一つとしてない。
が、どうしても彼を部屋に入れたくなかった。すると彼は取引を持ちかけてきたのだ。多分、無茶な二者択一を言い出して、部屋に入れるのが目的だったのだろうと思う。
何しろマンションの前の植え込みで上半身のストリップをするか?部屋に入れるか?なのだから。その無茶なほうを呑んだのは、一番には彼を部屋に入れたくなかったからだが、二番目の理由は囁いて来た彼の低く濡れた声に逆らえなかったからだ。あの時間、自分のマンションに徒歩で帰ってくる人間は居ない。タクシーかハイヤーだ。それも勇気をくれた。車の音が近付けば隠れればいい。
鎖骨の上の鬱血の痕…それは彼の所有の証だ。独占欲の証だともっといいのに…と思いながら服を脱いだ。彼の独占欲が自分に注がれたらいいのにと思うと指の震えが酷くなって行くのが分かる。肌を露わにすると、そこに口付けが降って来た。自分が内心望んでいた通りに。
すると、彼は内心を読んだかのように「他の男に見せようとは思わないでしょうね」と念押ししてきた。この言葉が独占欲から出ていれば…と思うが定かではないし、突っ込んで聞く勇気もなかった。
しかし、何かしら彼の心には自分の存在は刻まれているのが分かった。だから、名前を呼ぶという自分にとっては快挙を成し遂げることが出来た。彼は気付いていないのか、何も言わなかったが。いつか自分の名前も呼び捨てで呼んで欲しいものだと思いつつ。
長岡先生に印鑑を買いに行って貰った日のことも思い出す。彼女のズレ具合を知っていたので、多分印鑑を買うのも手間取るだろうな…と思っていた。
だから彼が様子を見に来る可能性が高い。秘書に買って来て貰うという手も有ったが、彼の口に入るものなので、自分が買いたくて・・・。大急ぎでサンドイッチとコーヒーを買いに出た。迷っている時間はないので手当たり次第に買うと思ったよりも大量に買ってしまった。
案の定長岡先生は遅れ、彼が様子を見に来たので昼食を勧めた。彼の食べっぷりの良さと、形の良い唇に見惚れていると何を勘違いしたものか、そのサンドイッチを欲しがっていると思われたようだった。嫌いではなかったが。ただ、彼が食べかけのものを自分が食べるというのは、とてもセクシャルな感じがする。喜んで彼の食べかけを貰って食べた。以前、同じサンドイッチを食べたことがあったが、それよりも10倍以上美味に感じた。
不覚にも手術室で倒れ、彼の部屋で療養することが決まった時は心臓が止まるほど驚いた。彼が自分のテリトリーに入れてくれるとは思っても居なかっただけに。しかも、合鍵まで渡してくれた。それも、長年使ってなさそうな合鍵だった。まさかと思い確かめてみた。
「他に合鍵は作っていないのか?」と。当然「作っている」と返されると予想したのだが。コトも無げに作っていないと返された時には驚いた。自分にそんな大切なモノが託されるとは思ってもみなかったので。だが、これまでの恋人とは共に行動し、合鍵を渡す必要がなかったのかもしれないな…とも思う。
彼の香りのするベッドで、しかも彼が横にいるのかと思うとそれだけで気持ちが満たされていく。体調は悪かったが、精神的には幸せだった。鎮静剤のせいか、口が勝手に動く。
「このベッド祐樹以外に何人が使ったか?」と。その返事を聞いてますます気持ちがふわふわと溶けていく気がした。
翌日、彼が大荷物を持って帰って来た時――それも自分用の食材だと言う。
自分のためにそこまでしてくれたのか…と思うと、不覚にも涙が出そうになった。彼が作る料理なら今まで招待された京都の料亭の料理よりもはるかに美味しく食べられるだろうと思う。それがどんなモノであっても…。
彼も自炊の経験がないと自己申告していたが、料理は化学の実験のような趣きになってしまったが、彼の周章狼狽気味を見て悪いが笑ってしまった。気を悪くするかと思ったが彼も笑っている。それだけで自分には天国だ。思いっきり笑った後で、「これだけ屈託なく笑ったのはいつが最後だろう?」と記憶を探るが生憎思い出せない。自分の記憶力にはいささかの自信を持っていただけに、多分こんなに笑ったのは生まれて初めてに違いないと思い至る。彼と一緒にいると底なし沼のように彼への愛情が深くなる。まだ気持ちも確かめていないのに…。
こんなに好きになってしまっては、片思いしていた頃よりも彼を失った絶望に耐えることが出来るのかと自問自答する。少し距離を置くほうがいいのかもしれない…そう決意したのは翌朝、目が覚めた時だった。彼が眠っている隙に「さよなら」のキスを仕掛けた。
彼が起きないようにそっと。
朝食を最後だと思って一緒に食べた。昨日の危なっかしい手つきが嘘のような朝食の支度をしている彼を息もせず止めて見詰める。もう彼のこんな姿は見られないだろうと思いながら。それなら全てを網膜に焼き付けたかった。
そして、昨日自分用に買った服を持って出勤する支度をした。案の定、彼は目敏く見つけ、何が入っているのかを聞いて来た。正直に答えると、彼は今までに見たことがないほど――星川ナースがワザとタイミングをずらしていると露見した時でもこんな顔にはならなかった怒りに満ちた顔になった。
少しは好きで居てくれるのだな・・・と思った。
今は、それで充分だと思う。
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