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第十章 第21話
鍵を掛けた扉に寄りかかって、星川ナースが万が一にも出て行けないようにしてから、右手の怪我の具合を確かめる。
出血はしているものの、指は支障もなく動く。どうやら腱は無事なようだった。
そのことにまず、安堵する。手の腱を切ってしまうと日常生活はともかく心臓外科医としての微細な動きは不可能になる可能性が高い。
完璧の一語に尽きる手技を持つ香川教授のようになりたいと思っていた祐樹にとってはそれは避けたい事態だったのだから。
掌を心臓より上に上げて取り敢えずは出血を止める。そして彼女を睨み据えた。彼女も強気な瞳で見返してくるが、どことなく切羽詰った感じがする。少し危険な雰囲気だった。
「手術室の道具出しのエースにしてはメスを逆に出すというミスはあからさま過ぎませんか?」
怒りの余り、却って丁寧な口調になった。
「教授も仰っていたじゃない?『ミスを起こすのが人間だ』と。田中先生はヒヤリ・ハットの事例が何件有るかご存知ないの?」
あくまでも故意ではなく、ミスだと言い張る彼女の瞳の中に追い詰められた人間が浮かべる虚無感に似た光を見つけた。
これは感情的に責めるよりも、彼女の言い分をある程度聞いておくほうが有利かもしれないと咄嗟に判断する。
そのためには祐樹自身の怒り――自分の手を切ったことではなく、教授の神の手とまで呼ばれる手を傷つけようとしたことが許せなかったので――を冷ます必要がある。時間が必要だ。
手術準備のために念入りに手洗いをした手なのでもともと消毒は済んでいるのと同じようなものだったのだが。それに、執刀医として術野にメスを入れていた教授と違って第二助手の祐樹は外回りの手伝いをしていたこともあり雑菌が手に付く機会はない。メスももちろん新品が使われているので、多少切ったところで怪我が雑菌により酷くなることもないだろう。が、星川ナースに冷たく言った。
「心臓外科の香川教授の命令です。手当て…して頂きますよ」
扉に寄りかかったまま、手術用手袋を左手ではがした。心臓よりも上には上げているが、動脈を切ったらしく出血量は滴るほどの量だ。現に何本もの血液の筋が祐樹の掌から腕へと伝っていた。
彼女は強気な視線のまま、処置用セットを出して手早く血止めをし、包帯を巻く。流石に手術室や救急救命にお呼びがかかっただけのことはある。怪我の対処は実に手早く適切だった。
そのリズミカルな動きを見ているうちに、「教授の腱をもし切断していたら」という怒りの念が徐々にクールダウンする。実際に教授が怪我をしたわけではないので尚更。
鎮まってはきたものの、彼女に対する怒りは雲散霧消するわけではなかったが。
「香川教授はこうも仰っていましたよね?『ミスをしないように気をつけろ』と。その言葉は聞いてなかったんですか?」
「聞いていました。でも…疲れていてフッと意識が飛んだ時に間違ってしまって」
どうせ形だけだろうが、しおらしい様子を見せる。
「疲れているのは医師も同じですよ。それでも皆がミスをしないように神経を尖らせているというのに…」
彼女の瞳に挑戦的な光が戻る。
「先生たちはいいわよね。社会的地位も高いし、おまけに香川教授はあの年齢で教授でしょ?アメリカ時代も稼いだようだし…そして日本に凱旋帰国した…しかもこの大学最年少の教授として…。私ももっとお金が有れば、ナースの専門学校ではなくて医学部に行けたのに…。先生達を見てたら本当に腹が立つわ。
お金に糸目はつけずに親御さんに最高の教育を受けさせてもらって、学生時代からはお嬢様大学と合コンとか、今流行りの『結活』でも、とっても有利よね。その点ナースの仕事はキツイし、医師の結婚相手を紹介する『婚活』の相談所にはナースは入れないのよ。良家の子女や、フライトアテンダントやモデルなんかが入れるというのにね、そんな人達と結婚して幸せでリッチな生活が出来るのだもの。
私から見れば、医師なんて恵まれた人の象徴としか見えない」
悔しそうに彼女は言った。
「それは少し違いますね。医師と一括りにされていますが、私や香川教授は、決して恵まれた学生時代を送っていませんよ…。私も父が早く亡くなり、母が生活をギリギリまで切り詰めて独力で医学部を目指しました。香川教授も同じような境遇だったと…仄聞しています」
――他人を逆恨みするヒマがあったら、医学部に入るために猛勉強すれば良いのにと思ってしまう。確かにちゃらちゃらした医者は多いのも事実だーー。
とそこまで考えて、軽佻浮薄な医師の代表格に祐樹が仮想敵と看做している山本センセが居たな…と思う。
「今の貴女の御言葉は、努力もせずに医師になったように聞こえますが、私にしろ香川教授にしろ、独力で勉強してこの大学の医学部に合格しました。貴女にはそれが可能ですか?」
高圧的ではなく、精神科の医師がカウンセリングをするような感じで相手の感情を逆撫でしないように言った。
「『あの』教授も金銭的に苦労しながらも、この大学に入ったの?」
初めて彼女の表情が、怒りから驚きに変わった。
「ええ、そう聞いていますが…」
「そんな…聞いていた話と全然違う…」
独り言のようにぽつりと呟いた。
その時、ドアを幾分乱暴にノックする音が聞こえた。
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