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第十章 第20話
術前カンファレンスは何時ものように隙のない香川教授の手術指示書のために短時間で終った。第一助手の柏木先生が、「手術開始」という言葉を促すように教授を見た。が、教授は凛としていながらもどこか艶のある眼差しで一堂を見渡し――祐樹と視線を合わせる時間が多かったような気がする――その後、手術用の手袋に包まれたしなやかな腕を挙げて皆の注目を集めた。
「この術式もそろそろ皆に定着してきた頃かと思いますが、『慣れてきた』という油断こそがミスを起こす原因ともなることを注意喚起しておきたいです。幸いにも私は齋藤医学部長や佐々木前教授から最高の手術スタッフを紹介して頂けました。その最高のスタッフですら…人間だ。ミスを必ず仕出かす生き物だということこそ、もう一度肝に銘じて今回の手術に臨んで欲しいです。ミスやエラーは油断から起こることを忘れないようにお願いします。」
その言葉に皆が、表情を改めて聞き入っている。星川ナースを密かに注視していた祐樹は彼女が教授と決して目を合わせないことに気付いた。
教授が彼女を見ても、彼女の方から目を逸らす。
――何か有るな――
そう思った。教授は最後に祐樹に刹那の一瞥を呉れた。時間こそ短かったが、想いのこもったものだということは分かる。
――星川ナースに気をつけろ――
そう言いたかったのではないかと推察する。
「では、手術室に行こう」
その一声で、まずはコ・メディカル(ナースや手術に携わる色々な技師など)がまず部屋を出て行った。
もちろん手術の準備は先に彼らがしている。その次が麻酔医で次は病理医、最後は心臓外科の一団だ。手術の場では専門性が高いポジションに居れば居るほど上位にランキングされるものなので。
今回、執刀医は教授で第一助手は柏木先生だ。その次が祐樹という席次になる。三人だけになったカンファレンスルームで教授が2人に小声で囁く。
「今日で区切りが付くので…くれぐれも彼女には」
――気を付けていてくれ――と言いたいことくらい馬鹿でも察しは付くだろう。柏木先生も真剣な表情で頷いている。
祐樹がまず手術室に入り、星川ナースを牽制するように睨み付けたが、彼女は強気な光を湛えた目で見返して来た。柏木先生が次に入って来たが、彼はいつものように淡々と器具の最終チェックをしている。その直ぐ後に教授が入室する。
「開始する。メスとクーパー」
あくまでも涼やかな声が手術室に滑らかに響く。それが合図だったかのように全ての人間が動き出す。
星川ナースはタイミングをずらしてはいるようだが、今まで見てきたのとは少し違った。教授が術野に視線を注いで居る時にはタイミングをずらしているのが分かる。が、教授が彼女を見詰めて指示出しをすると、タイミングがピタリと合う。まるで反射神経で動いているかのように…。
祐樹が気付いたことは教授も気付いたらしい。彼女を見る時間が――と言っても手術中なのでごくごく僅かな秒単位の時間だが――彼女の瞳をキチンと見て指示を出している。祐樹は自分の業務をこなしながらも、その様を観察していた。どうやら、彼女も教授の瞳の魔力に囚われてしまったのでは?と結論を出しかけた時、彼女の目つきが変わった。しかも、嫌な雰囲気に。
我に返ったような、気持ちを切り替えたような瞳だった。その目は何かを企んでいる。
そう思った時、メスが教授に手渡されようとしていた。が、ワンテンポずれていた。
流石の教授も彼女の変化には気付かない執刀医のポジションに立っている。気付いたのは祐樹だけのようだ。しかもメスは、――恐らくは故意で――グリップ部分ではなく切っ先が教授の手に手渡されようとしている。
考えるよりも早く身体が動いた。教授がメスを握る前に、祐樹が握る。手術用の手袋が緩衝材になったのか、痛みはあまり感じなかったが、メスは手を切ったようだった。
一瞬、手術室の空気が凍りつく。計測すれば僅かな時間だろうが、手術室は時を止めたようになった。
――これはマズい――
心臓を患者さんから取り出している時間は短ければ短い方がいいのは常識だ。
「スミマセン。肌が露出してしまったので、第二助手から降ります」
それまで瞳を見開いて動作を止めていた教授が我に返ったように宣言した。
「ゆ…田中先生は、直ぐに手当てを。第二助手は柏木先生が兼務。但し、メスのミスを惹起したのは星川君なので、田中先生の手当ては星川君にしてもらうこととする。続行」
ちらりと意味ありげに祐樹を見た教授の瞳は雄弁だった。
感謝の意と、恐らくは怪我に対する心配、そして星川ナースを手術室に入れるな…ということだろう。
力強く頷きを返した。大丈夫ですよ…という暗意を込めて。
祐樹も彼女を野放しにしておく気は全くないので、左手で彼女の腕を掴んで手術室から出た。執刀医ならばともかく第二助手が居なくても、手術は無事に回るだろう。
出る瞬間は教授の視線は術野に集中していたが、柏木先生が「後は任せろ」という意味の目配せを送ってきた。執刀医として、これ以上の手術時間の遅れはマズイと教授は判断したのだろう。その判断は祐樹にも妥当に思えた。
「放して下さい。一人で歩けます」
硬い声でいう星川ナースの言葉は無視して手術スタッフの控え室まで連行する。そこには応急処置の準備がある。そこに彼女を押し込め、鍵を掛けた。
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