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第十章 第19話

「そうだな…では手術室で会おう」   教授が応接用のソファーから優雅に立ち上がる。一連の動作は薫るような色香を放っているように祐樹は感じた。 「では、後ほど。失礼しました」  柏木先生が、あくまでも「教授」に対する礼儀正しさを崩さずに言う。 「ああ、呼び立てて済まない」  視線が一瞬祐樹と絡み合った。柏木先生は手術に意識が行っているのか背中を向けている。祐樹が微笑みかけると、彼も艶っぽい視線で微笑む。  刹那の視線の絡み合いだったが、祐樹の気持ちの混乱は少しマシになった。  やはり彼の一挙一動で感情が揺れるのだから、彼のことはかなり愛してしまったな…と思う。後は告白するだけなのだが…。それも頭の痛い問題だった。  手術前のカンファレンスの時間までもう少しだったので、教授室から柏木先生と2人して手術用のスタッフ準備室に入った。教授室で今日の手術指示書は読ませてもらっている。祐樹も手術指示書程度の分量の文章であれば一読したら暗記出来る。しかも、香川教授の心臓バイパス術を希望して全国から患者さんが集まって来ている今は、術式は似たようなものなので更に覚えやすい。  念のため手術スタッフの名前は確認したが、そこには星川ナースの名前があり祐樹は「気を引き締めなければ」と内心では思っていた。  手術用の「手洗い」――これは慣れていない人間なら1時間はかかってしまうシロモノだ――を並んで行っていると、柏木先生がフト呟くように言った。 「大学病院とは一体何のためにあるのだろう…と最近は疑問を禁じえない」 「高度な医療を提供するため…ですよね?」  柏木先生の言いたいことは何となく察しが付いたが、敢えてとぼける。 「そうだ。だが、教授だの准教授だのと自分の手技ではなく…権力だけを何としてでも欲しがって、自分の実力を見ようとしない人間が多いのには呆れてしまう…」  心底、嘆かわしいといった声音だった。 「例えば?」  柏木先生がこれくらいのことで実名を挙げるハズはないので無駄を承知で聞いてみる。 「田中先生は、香川教授の懐刀と呼ばれていることはあるな…しかし」  そう言って謎めいた笑みを浮かべた。 「俺は個人攻撃に走るつもりはない。派閥争い…と言っても香川教授は派閥の力であのポジションを掴んだわけではないが…も興味がない。気になるなら自分の力で調べてみるといい。あくまで一般論だ。香川教授は例外中の例外で20代で教授だが…。医学部教授になる一番の早道を知っているか?」 「早道というと…40代で教授職ということですか?」  祐樹の常識からすると40代で教授になるのは早い出世だろうと思ったのだが。 「知り合いの知り合いで…38歳で教授になった人が居る。そのコツはマイナーな科を専門に目指せば教授になれる可能性が高いから法医学の教授と決めて、今では法医の教授だ」 「そういえば、法医学って、そんなに人気がないですよね…やっぱり『治す』という方が医師として遣り甲斐があるのでしょうか?」  祐樹の発言に柏木先生は深刻な顔をした。 「法医学が寂れているのは解剖数が絶対的に少ないからだ。司法解剖で警察からの依頼が回って来ても、解剖してみて異常死でないとの結果を報告すれば一件当たり30万円の費用は警察からは下りない。そういう仕組みなので…結果的には病院側の持ち出しということになる。要するに企業で言えば赤字だな…。儲からないから縮小されるだけさ。法医学の専門医は全国で100名ほどだから…競争率は少ない。だから30代でも教授になれる。だが、病院としては儲からないのだから規模はどんどん縮小される」  そういえば、香川教授も救急救命は儲からないと言っていたな…と思い出す。 「救急救命室も同じなのでしょうか?」 「同じだな…田中先生の方が現場には詳しそうだが…あそこも患者さんがどっと来るかと思えば、全く搬送されない時もあるだろう?それでも人件費は同じだけ必要だ」  柏木先生は派閥や出世問題よりも医療についてのことを真剣に――多分、教授と同じ程度に――案じているのだと思った。 「そうですね。あそこは忙しい時は本当に目が回るくらい忙しいです。心臓の手術の時とは全く異なった緊張感ですね…」 「忙しいから、処置に必要な物品請求の書類を作っている暇がない…すると、物品が事務局からは届かないので患者さんが困る…といった悪循環だろう?鈴木さんの検査の件を引き受けようと思ったのは俺の研究とリンクしていて興味深かったということも有るが、彼の職歴を見て、有能そうな人物だから救急救命室の物品請求の書類を書けるだろうと思った。そうなれば現場の医師やナースの負担が減ることに気付いたからだ」  祐樹はまだ、半人前の研修医なのでそこまでの視野はなかった。というよりも香川教授の学年の医師はみなこんなに深く物事を考えているのだな…と単純に感心した。 「なるほど…鈴木さんに書類を作って貰えれば、確かに治療の途中で『あの薬がない』とパニックになることはなさそうです」  話しながらも準備を終え、手術控え室に入った。今日の祐樹は第二助手だ。  星川ナースも既に準備を終えている。彼女は挑戦的な眼差しで祐樹を睨む。だが、祐樹も本気で怒ればかなりの迫力の有る――と自負もしているし、他人からも指摘されたこともある――眼差しが可能だ。思いっきり睨み付けた。2人が視線で対峙しているのを柏木先生だけは気付いている。  そこに教授が手術着姿で入室して来た。自然と皆の視線は執刀医である教授に集まる。それぞれが一礼する。彼の涼しげな雰囲気は――内心では緊張をしているはずなのだが――快適に保たれている室温がさらに心地よくなったような気がした。  手術用マスクで彼の口元は覆われているが瞳は露出している。ちらりと祐樹を見る眼差しは、さり気無いものだったが…他の顔や身体のパーツが隠されている分、余計に色香を放っていた。

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