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第十章 第18話

「田中先生のレポートを読んで、これまでの自分の仕事に疑問が出て来たのは事実だ」  柏木先生は教授と同学年だが、彼は一介の医師だ。もちろん年齢を考えると教授になるほうが空前絶後とも言うべき出世振りなのだが。  ただし、柏木先生の外科医としての才能は素晴らしいと思う。尊敬すべき先輩にほとほと感心した口調で言われ、祐樹は面食らった。 「そうですか?ただ、思ったことをレポートに書いただけなので、その評価は面映いですが…?」 「患者さんとは一体何か…ということを考えさせられて貰ったよ。我々は現代医学の西洋的パラダイムに飲み込まれてしまって、普段はそれが当たり前だと思っていた」 「パラダイムとは…学問的に系統立てて物事を考えるということですよね」  教授への心情の揺らぎから内心では混乱している祐樹にとって柏木先生の別次元の話が有り難い。 「そうだ。医学部に入ると基礎から臨床まで『西洋的』な医学のパラダイムが頭に染み付く仕組みになっている。もちろんそれは正しいが『西洋的』な患者観は、『壊れてしまったものを治すために最善を尽くす』というものだ。それは分かるな」 「ええ、分かります。しかし今回の鈴木さんの件とはどう関連付けられるのでしょうか?」  哲学的な議論を吹っかけて来られたような気がして興味が湧いた。 「例えば、右手を骨折して入院した患者さんがいるだろう?骨折以外はまるっきりの健康体で、処置と言えば鎮痛剤の点滴くらいだ。ギブスは家に居ても病室に居ても安静にしてさえすれば問題ない。それでは彼はどちらに居る方がリラックス出来るだろうか?病院ではプライバシーへの配慮が欠けているし、病院食もお世辞にも美味しいとは言えない」  そんなことは考えても居なかったので、いささか面食らいながらも率直に言った。 「自宅では自分の好きなことを気兼ねなく出来ますよね。もちろん、骨折した箇所は庇ってというのが前提ですが…それに妻帯者の男性の場合は病院食よりも奥さんが作ってくれた料理の方が美味しいに決まってます…例外も皆無ではないでしょうが、手作りの料理が好きな皿に並んでいるほうが食欲は湧きますよ…ね」  教授が作ってくれた朝食をふと思い出す。病院ではプラスティックや愛想のないアルミの皿で食事が出る。決して美食家ではない祐樹も実際食べてみてその不味さとそっけない盛り付けに驚いたものだ。 「そうだろう?患者さんの視点に立てば、余程容態が悪い患者さんを除いてだが、『患者サマ』の立場に立つのは嫌なハズだ」  成る程な…と思う。柏木先生の論点も見えてきた。 「つまり、鈴木さんの場合はいつ狭心症の発作が出ないとも限らないリスクはあるものの、――食餌療法は必要ですが――彼の心の中では誰かの役に立ちたいと思っているということですか?」 「そういうことだ。大学病院に勤務する者の発言としては言うべきではないのかも知れないが…入院患者さんへの『生活の質』をなおざりにしてきたのではないか?との疑問を田中先生のレポートを読んで思った。俺よりも、香川教授の方が手術至上主義のハズなのだが…実際はそうではなかったらしい。広い視野を持っているのだなと。俺とは同学年だが、こんなにポジションが異なるのもむべなるかなと納得した。彼は流石だな」  柏木先生が教授を褒めているのを聞いて自分のことのように嬉しかった。発案者は祐樹なのだが、教授が無視すればこの話はうたかたのように消えて無くなってしまうのだから。  話している間に祐樹にとって馴染みの深い教授室の扉の前に到着する。この場合、柏木先生の方が一介の研修医である祐樹よりもポジションは上なので彼が扉をノックし、来意を告げた。 「入りたまえ」  教授の涼しげな声が聞こえる。内心の動揺を押し隠しながら祐樹は柏木先生の後ろに続く。  教授の白く長い指が応接セットを指し示す。一瞬、目が合った。彼は眩しげに祐樹を見てから業務用の冷徹な顔に戻る。中年の秘書がすかさずコーヒーを運んでくる。 「手術前の忙しい時間に呼び立てて済まない。が、これは検討に値する案件だと思ったのだが、柏木先生の意見はどうだろうか?」  同期というせいもあって教授の口調は幾分くだけたものになっている。 「素晴らしいと思いますよ。ただ、狭心症の患者さんの場合はいつ発作が起こるか分からない上にストレスは厳禁です。その点は、早い段階で血中濃度を計測し『本当にストレスを感じていないか』を確認してから救急救命室の手伝いをすれば、鈴木さんの生活の質<QOL>は上がるでしょう。その計測は私が責任を持って行います」  淡々と柏木先生は言った。 「有り難う。生憎内田先生は外来診療があるので同行出来ないが、長岡先生でも大丈夫だろう。幸いにも手術は午前中の一件だけだ。午後から早速取り掛かってくれれば有り難い。不測の事態に備えて、私と柏木先生、長岡先生、そして…ゆ…田中先生と一緒に鈴木さんを救急救命室に連れて行く件は北教授の許可は取ってある」 「それは良いのですが『救急救命室』の実質的な指揮はナースが執っているようですね。組織論からすると逸脱しているのでは?いくら教授職が研究中心とは言え、ああいう特殊な部署だからこそ責任者がリーダーシップを発揮すべきなのでは?」  責任感が強く、曲がったことの嫌いな柏木先生らしい発言だった。 「救急救命室は他の科と全く違います。その場その場を臨機応変に切り抜けられる医師が現状ではいないので、ナースが指揮を執るのも止む無しかと…北教授もそのナース――阿部師長と言いますがーーの指揮能力を高く買ってらっしゃいますから」  祐樹が助け舟を出した。 「そうか…あそこに詳しい田中先生がそう言うなら、そうなんだろう」 「どうだろうか?柏木先生も少し業務を他の…そうだな、山本先生などに割り振ってあちらに助っ人として行ってみないか?視野が広がる。もちろん、私が柏木先生を疎んじているわけではなくむしろその逆だ。ゆ…田中先生はあそこでの経験が手術の時にいかんなく発揮されている」 「教授がそこまで仰るのであれば喜んで。そろそろ手術の準備に掛かります」  柏木先生が冷静な声で言う。  祐樹は、手術が済んで、救急救命室に行く前に彼との暗黙の了解である乳液を付けて行って彼が気付くかどうか確かめようと思っていた。

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