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第十章 第17話

 ついつい教授の前では自粛している煙草を吸いに喫茶店にでも入ろうかと思っていた。   正規の出勤時間にはまだかなり時間がある。  阿部師長に遭遇してたら、また無理難題を吹っかけられそうだったので、この前とは違う喫茶店に入った。この界隈では異色のお洒落な感じの店だった。コーヒーを注文し、煙草に火を点ける。 ――このままでは蛇の生殺しだな――  つくづくそう思う。何とか彼との仲を進展させたいが、その方法が分からない。部下としては結構重宝されているとは思う。そしてプライベートでも信頼は…されているだろう。だが、祐樹と同じだけの愛情を彼が抱いているかどうかは分からない。  数回の逢瀬で感じたことといえば、彼はそれほど経験豊富ではなかったということだけで、後は杉田弁護士の言葉を信用するなら――といって反論出来るだけの論拠もなかったのだが――彼が祐樹の言葉に合わせて過去を捏造してくれたという点が、彼の心情の僅かな吐露となるのだろうか?  祐樹は思わせぶりな態度があからさまだとキチンと相手の意思を汲み取れるが、本来は言葉に出して言われなければ分からない。理系人間にはありがちなタイプだと思う。彼ももしかしたらそうなのだろうか?  それにしても、彼ほどの恵まれた容姿を持っていながらどうしてあんなに経験が少ないのかがどうしても解けない謎だ。  グレイスでも引く手あまただったのに、ましてや彼は祐樹のような性癖を持つ人間からすれば天国のようなLA帰りだ。あちらではもっとあからさまなアプローチが有ったことは想像に難くない。今夜、絶対に彼の過去を確かめようと何度目かの決意をした。  その時、隣の若い2人の女性の話が耳に入る。祐樹には見覚えがないがどうやら夜勤明けのナースらしい。 「今朝はラッキーだったね」 「疲れきって門のところで『あの』教授が出勤されて来たところだったもんね。しかも挨拶したら笑って挨拶を返して下さったし」 「うん、そうそう。前は結構冷たい感じで近寄り難かったけど、最近は何だか雰囲気が違ってきてて…今日が夜勤で良かったね」 「うん。あの笑顔で夜勤の疲れが吹っ飛んだぁ。でもでも、とってもカッコいいんだけど、でも高嶺の花よね、やっぱり」  どうせ、香川教授の噂話だろう。最近の彼はナースの間では人気上昇中なのは知っている。忌忌しいが。  彼女は残念そうな声だった。――「高嶺の花」――と聞いて、教授の言葉が脳裏に蘇る。彼の頭の中に住んでいる「高嶺の花」はどんな人間なのだろうかと。夜勤という言葉を使うからには他科のナースだろう。  教授の変化を見逃さない辺りは女性の目は侮れない。さっき、彼が見知らぬ主婦に挨拶をしたのと同じようにナースにも笑いかけたのだろう…それを咎めることは出来ない。  彼女達は、祐樹が聞き耳を立てていることなど気付かずに話を続ける。夜勤明けで疲れすぎてハイテンションになっているのかもしれないが。祐樹にも覚えがある。疲労がピークになると却って感情の歯止めが効かなくなる。 「玉砕覚悟でコクってみる価値はあるよね~」 「うんうん、有るけど、でも齋藤医学部長のお嬢様も狙っているらしいって聞いたよ」 「でも、長岡先生が居るじゃない?」 「婚約者ってだけで結婚したわけじゃないんだから、ポジション的には少し弱いんじゃない?」  長岡先生の名前がまだ婚約者としてまかり通っているのを知って少し安堵はしたが、齋藤医学部長のお嬢様ともなれば教授もムゲに断れないだろう。今朝の教授の言葉も気になる。 『祐樹にも可愛いお嫁さんが…』と言ったくだりだ。齋藤医学部長は海外の学会出席中だし、教授はプライベートな時間は祐樹と一緒に居るので、そうそう仲が進展しているとは思いたくなかったが。  吸いかけの煙草を2人のナースと見たこともない齋藤医学部長のご令嬢に見立てて思いっきり捻り潰した。  医局に出勤すると柏木先生が祐樹を意味ありげに見て、視線を山本センセに移した。山本センセは自室を与えられているにも関わらず医局に時々顔を見せる。何やら真剣な表情で木村講師と回りを気にして小声で話している。二人とも不本意そうな表情が印象的だった。 ――あの2人も、香川教授に良い感情は持っていない。星川ナースの黒幕候補だな――  そう思ってはみるものの、明日、多分開示されるハズの杉田弁護士からの情報を待つしかない。 「今朝メールチェックしていて驚いた。教授からの呼び出しだ。しかも内科の内田講師まで巻き込んだプロジェクトを田中先生が作ったのだろう?」  密談中の2人には聞こえない位置で柏木先生は囁いた。 「いや、確かに立案は私ですが、あくまでも教授のご判断ですから」 「だが、興味深いレポートだったよ。救急救命室で死ぬほどこき使われている田中先生らしいアイディアだ」  感心したような、少し憐憫の情を滲ませたような複雑な声で言われた。 「え?私のレポートも読まれたのですか?」 「ああ、PDFファイルで一緒に送られてきたから読ませてもらった。心臓外科の、しかも手術がメインの私には思いも寄らない斬新なアイディアで感心した。私の研究は知っての通り『手術中の患者さんのストレスを血中の微細な成分の分析で計測する』というものだが、普通の患者さんにも応用が出来そうだ。喜んで協力させて貰うよ。教授室に行くのだろう?一緒に行こう」  手術の時間までにはまだまだ間が有る。白衣のまま教授室に向かった。  ある意味、柏木先生が誘ってくれて良かったな…と思う。教授室には秘書は当然出勤して来ているだろうが、祐樹1人だと内心の動揺で何を口走るか分からないほど混乱している。柏木先生が居れば、抑止力には十分なる。 「しかし、教授は流石だな。手技だけではなく、色々な視点から患者さんのことを考えている」 「そうですね。あの視野の広さは見習いたいものです」 「ウチには、『教授』や『准教授』のポストだけを狙っている人間が――それも権力だけを欲しがっているだけで何のビジョンも持ってない人間が多い。まぁ、どこの大学病院でも同じことだが」   医局内政治の心得はあるものの、根っからの心臓外科医師気質の柏木先生は心外そうに言った。先ほどの山本センセと木村講師のことを言いたいらしい。他人のことをとやかく言わない柏木先生のこの言葉で、彼は何か知っているなと直感した。が、彼の口の堅さも知っているので頷くだけにとどめた。

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