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第十章 第16話
出勤用のスーツで道を歩いていると、2人の地位の違いから祐樹はツイ、教授の後ろを歩いてしまう。2人きりの時なら並んで歩くことも出来るようになったが…仕事と関係するものはやはり気後れしてしまう。
その距離に気付いたのか、彼は歩調を緩めて祐樹と肩を並べて歩いてくれた。通勤ラッシュにぶつかっていないためか、出勤する人間の数はまばらだった。その代わり、民家の主婦が玄関前の掃除を始めている。
祐樹が住んでいるマンションの一角はまだ昔ながらの京都の民家も混在しているので。掃除用具を持った民家の主婦は、祐樹の顔見知りも多い。
「お早うございます」
そう挨拶してくれる女性も多かった。彼女達はまず、祐樹を数秒眩しげに見てから横に佇んでいる教授に目を遣る。確実に祐樹の顔を見るよりも明らかに長い時間、失礼にならない程度に目を逸らしながらも彼を見詰めている。
「お早うございます」
そう言って笑顔で見ず知らずの他人のハズの教授に話しかけている中年の主婦も居るくらいだ。
「お早うございます」
教授が笑顔で答えると、頬を染める女性も珍しくはなかった。内心誇らしげに思いながらも、少しはムッとした。
民家を通り過ぎると祐樹は大人気ない詰問を彼にぶつけてしまう。
「どうして挨拶をしたのですか?しかも笑顔付きで?」
教授は祐樹が何故そんなことを言い出すのか全く見当も付かないといった怪訝な表情を浮かべた。
「笑顔で挨拶されたから、そのまま返しただけだが…?」
律儀な彼らしい返答に毒気を抜かれ、その話題を続けるのは止めようと判断する。
五月の爽やかな日の光と青葉が目に眩しい。少し盛りを過ぎたツツジの花も綺麗だ。
もちろん、一番祐樹にとって目に眩しいのも綺麗なのも横を歩くかの人だったが。
――手を繋いで歩きたいな――
ふと心に浮かんだ考えに自分でもぎょっとする。大学時代に合コンで知り合ってしばらく付き合った女子大生は向こうが手を繋ぎたがったので、手を繋いで京都の街を歩いたことはあるが、グレイスで知り合った同じ性癖の持ち主とは手を繋ぎたいとも思わなかったのに。男性同士が手を繋ぐという日本では珍しい風景が嫌だったわけではなく、繋ぎたいとも思わなかった。それが彼とは外ででも繋ぎたいと思う。が、場所と時間を考えて自制した。
しばらく沈黙が続いたが、それもまた気まずいものではない。その証拠に彼の白皙の顔には微笑が浮かんでいる。
咳払いをして彼に聞いた。
「先ほどのキーホルダー、新しかったですが…しかも鍵が一本しかなかったのですが?」
「ああ、あれか…祐樹が合鍵をくれたので、教授室や色々な場所の鍵と紛れないようにキーホルダーを新しく買った。夕飯を買うために行った百貨店で」
「何もわざわざ買わなくても…。しかも教授のネクタイと同じブランドにするなんて…ご自宅の鍵と一緒に付けていればいいじゃないですか?」
「自宅は、オートロックで鍵が必要ないシステムで。だから家の鍵は持ってない。買ったのはマズかったか?」
心配そうに見上げる彼に、微笑みかけた。
「いえ、嬉しいです…というか光栄ですね。貧弱なウチのマンションの鍵には勿体ないキーホルダーですが…」
「そうか、それは良かった」
彼の声が僅かではあるが弾んでいるのを聞き逃さなかった。彼も祐樹と同じくらい、祐樹のことを愛してくれれば良いなと思う。彼は一体祐樹のことをどう思ってくれているのだろうか?杉田弁護士の推論は、今夜確かめるつもりだったが。
まぁ、彼の過去がどうであろうとも…祐樹自身、教授の過去の男性関係を責める資格など、全くない。
が、頭の痛い問題は告白方法だ。こんな関係になってしまってから「好きです。付き合いましょう」と言うのも時期が悪すぎる。かと言ってこのままずるずると関係を続けているのは、彼に対して失礼にも思える。
「祐樹、出勤して医局に顔を出してから、手術前に部屋に来て欲しい。柏木先生も呼んであるから」
職業上の声を出して彼は言った。といっても彼の声は耳に心地よいが。
「分かりました。柏木先生と…ですか?」
柏木先生は多分教授が一番手術の腕を買っている医師だ。――黒木准教授は別格として――手術のことなら手術前のスタッフミーティングで事足りるハズだが?
そういう考えが顔に出たらしい。教授は実務的な口調で言った。
「昨日祐樹が提出してくれたレポートの件だ。患者さんを事務とはいえ使うというのは病院としても冒険だ。
だが、患者は患者として看護の対象としてしか見ていない日本の医療制度は少し違うのではないかと思っている。あくまでも私見だが。ベッドに縛り付けられて保護の対象になるのが心地よいと思う患者さんも居るだろうが…ベッドにずっと寝ていることにストレスを感じる患者さんも居る。鈴木さんはそのタイプだろう。この病気にストレスは大敵だ。
もし、救急救命室での医療事務の補佐をすることでストレスが軽減するならそれに越したことはないからな。
柏木先生用に資料も作成したし、内科の内田講師にも同じ資料を院内メールしてあるので、きっと何かしらの反応が来るはずだ」
彼の仕事は相変わらず早いな…と思う。教授の手術は祐樹の進言により一日1例になったので少しは時間に余裕が出来たのだろうが…ただ、彼の場合一日2例でも同じ位のことはしたように思う。
「昨夜、私が教授室を出てから、手術の指示書と柏木先生への資料を作っただけですか?」
ふと気になって聞いてみた。
「いや、明日の分の手術指示書は作成しておいたが?」
集中していないと余計なことが気になる…
声を落として彼は呟いていた。
――やはり星川ナースの件は相当気に掛かっているのだろう――
職員用の出入り口が見えて来た。
「では、私はここからゆっくり歩きます」
「そうか?では後ほど」
そう言って颯爽かつ優雅に歩く彼の後姿を視界から消えるまで見詰めていた。
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