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第十章 第15話
彼の帰宅時間をさり気無く聞きだそうと、余分な質問をする。
祐樹がざっと見たところ、部屋の掃除などはされていなかったし、彼の仕事では必需品のハズのパソコンも(祐樹のを使ったのなら別だが)見当たらない。この部屋に帰って来て――食事は小食の彼のことだ、祐樹と教授室で食べた後は食べていないだろう――御風呂に入り、朝食の準備をして就寝する他にすることと言えば専門誌を読むことぐらいだろうが、そういった気配もなかった。
「私…ですか?何をしていました?」
「私が覗いた時はCTの画像を見て医師に指示を与えていたという感じだったが…長い時間は見ていなかったが…」
それなら祐樹が教授の部屋を見上げるのを中止して、救急救命室に走ってすぐのことだ。
あの時間から真っ直ぐここに帰ってきたのだとすると――彼ならそうしただろうが――部屋で少しはゆっくり出来たに違いない。
「ああ、何故か阿部師長が、『指揮を執ってみて』と言い出したので…こわごわやっていた時のことだろうかと思います…教授が御覧になられたのは」
職業柄、食べるのは早い。特に朝は。祐樹も殆ど食べ終わっていたし、教授も八割がた食べ終わっている。
彼の匂い立つような白い指が礼儀正しく箸を置き、何かを考えるように細い顎にかかった。
「阿部師長は、絶対に患者さんの負担になるようなことはしない。祐樹が指揮を任されたというのも、師長が『任せても大丈夫だ』と思ったに違いない。学生の頃から救急救命室に行っていたが…任された先生は、私が把握している限り系列病院の救急救命センターで救急救命医として働いている。中には救急救命センター長まで出世した先生も居る」
その話を聞いて心の底から驚いた。阿部師長が祐樹の我が儘を聞いてくれる代わりに無理難題を押し付けただけだと思っていたのだが、それほど祐樹の医師としての腕を買ってくれていたとは…。彼女の仕事熱心さからすると、祐樹の腕に不安があれば、他のことで無理難題を言ってくるだろうから…。
教授に「なぜ阿部師長が指揮を執ってみて」と言い出したのかを打ち明けてみたいな…とフト思ったが、職場で教授が祐樹のことを本当に注意を払ってくれているかを確かめるために――自分でも子供じみた考えだとは重々承知していたが――そちらは黙っていることにした。
「もしかして、教授も指揮されたこと…ありますか?」
「正式にはない…流石に救急救命室が一種の治外法権でも…私が入り浸っていたのは医師免許を取る前のことだったので…本来ならば医療行為も医師法違反なのだが…それは黙認されていたが、指揮を執るとなると医師の反発は必至だから流石の阿部師長も遠慮したようだ」
――正式には――とわざわざ断りを入れるところが怪しい。こっそりと指揮を執ったに違いないと思った。
祐樹にすら出来ることなのだから教授ならばもっと上手かっただろうな…と思った。こういう時に彼と自分との差を自覚するが腹は立たない。もっと医師としての腕を磨くべきだと固く決意する。
ちらっと彼の清楚でありながらどこか妖艶な眼差しが時計を確かめている。
「祐樹のお母様からすると自慢の息子だろうな?一人っ子なのだろう?」
「医学部に合格した時と医師になった時はとても喜んでくれましたよ」
教授が天涯孤独の身の上だということは知っていたが、彼の言葉は患者さんの容態を家族に説明している時と同じで何の動揺も浮かべていない。その上、純粋に知りたいといったニュアンスだったので祐樹も誤魔化さずに答えた。
「次は可愛いお嫁さんをと思っているのではないか?」
「…思っているかも知れませんが…口に出したことはありませんね。しかし、私自身、今は女性に興味がないですから…。それに母は自分の病気で息子どころではないと思いますよ…」
もう一歩踏み込んで教授をどう思っているかを言いたかったが、朝っぱらからそういう話題を振るのも憚られた。
「そうか…。M市市民病院だったな」
記憶力の良い人が二回も…それも祐樹の母が入院している病院の名前をどうして確認するのかと思いながらも頷いた。
「そろそろ出勤する時間ですね。私はネクタイを締めるだけですから、教授は着替えて下さい。後片付けはしておきます」
「…そうだな。で、朝食は祐樹の口に合っただろうか?」
心配そうに顔色を窺う教授に思わず笑みを深めた。
「とても美味しかったですよ。こんなに美味しい朝食を食べたのは実家に居る時以来です」
「そうか…それなら良かった」
晴れ晴れとした口調と微笑みがこちらまで幸せにさせてくれる。
彼はリビングにきっちりと自分の私物を分けて置いている。祐樹としては自分の収納スペースに彼の洋服をハンガーに掛けて貰っても全く構わなかったのだが、几帳面な彼はそいう曖昧さを嫌いそうだ。使った皿を洗うためのシンクに運んでいると、彼はちょうどTシャツを脱いだところだった。
思わず手を止めてじっと見詰めてしまう、ついでに呼吸も。
彼の白い背中の肩甲骨が理想的な形で突き出している。そのラインから幾分ほっそりとはしているものの、肩幅は男性的なラインを描いている。そこから伸びる長くて芸術的な腕。普段は滅多に見られない箇所を朝の陽光の下で惜しげもなく晒されているのを感嘆の余り凝視していた。
視線に気付いたのか、彼は不思議そうに祐樹を見る。
「いえ、何でもないです」
大急ぎで皿を洗い、ゴミの日ではないことを確認して――教授が祐樹のサインに気付いてくれたら今夜はここには帰らないつもりだったので――三角コーナーを見るとピカピカに光っている。――ああ、ここを掃除してくれたのだな…と思うと、嬉しさ半分、もう少し身体のことを考えて欲しいと思う気持ちが半分だった――
手早く出勤準備をする。2人して部屋を出ようとすると、教授が祐樹の腕を軽く掴んだ。彼の神秘的な瞳に吸い寄せられるように唇を重ねた、ほんの刹那だったが。
我に返った祐樹が鍵を取り出す前に教授が真新しいキーホルダーから鍵を取り出して鍵穴に鍵を入れる。しかも嬉しそうに微笑みながら。
その笑顔に心拍数が上がった。と同時に、そのキーホルダーには祐樹のマンションの鍵しか入っていないことに気付いた。
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