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第十章 第14話
浴室に入って、思わず目を見開いた。バスタブにお湯が張ってあり、温度を確認するとちょうど適温だ。
真っ新なお湯であるのも一目瞭然だった。その上、リラックス効果のあるとどこかで読んだ覚えがあるラベンダー香りの入浴剤…それも、バス・○リンなどの大衆的なものではなく多分値段の張る外国のものだろう…が良い香りを放っていた。
どう考えても教授が祐樹のためにバスタブに湯を張っていたに違いない。帰宅出来なかったかも知れない祐樹のために…と思うと、彼への愛しさがますます深まる。
「まさか、朝の準備で寝てない…なんてことはないだろうな?」
後で確かめに行こうと思った。
ボディ・ソープを泡立てて身体を洗いどうしても身体についてしまう血液や血の臭いなどをシャワーで泡と共に洗い流し、洗髪などを済ませて湯に浸かる。確かに身体の疲れはかなり軽減されるのを感じた。
祐樹1人の時は面倒なのでシャワーだけだったのだが。しかし、お湯を張ってくれた彼の厚意を無駄には出来ない。筋肉と精神が弛緩するのを――筋肉はお湯で、精神は良い香りのする入浴剤の芳香だ――で感じていた。
五分ほどバスタブに浸かってから、ざっと身体を拭い、下着にワイシャツを着て彼の居る台所ではなく、寝室に行った。頭をタオルで拭きながら。彼の視線を背中で感じていた。深みのある眼差しで見られているな…と思う。
起きてからシーツの乱れなどはざっと直したようだが、確かに寝た形跡があるのを確かめて安堵した。何時間寝ていたのかは分からないが…しかし、子供を持った母親のように「何時間寝ましたか?」とも聞けないな…と思う。
ネクタイは後回しにして出勤用のスラックスを穿くと、キッチンに戻った。
「少しでも疲れは取れたか?」
教授が眩しげに祐樹を見詰めて、真剣な表情で聞く。
「ええ、お湯を張って戴いて有り難うございます。ゆっくり自宅で浴槽に浸かったことがなかったもので…でも、確かに疲れは取れますね。シャワーだけよりも…それに、とても良い香りでしたよ」
彼は炊きたて(だろう。多分)の御飯をお茶碗に移しながら微笑んだ。
やはり、半袖から覗く彼の腕のちょうど良い細さに目を奪われる。白いがバネのようなしなかやな筋肉が付いている綺麗な腕。
それに二回目の逢瀬の後から感じられるようになった、彼の何気ない動作や眼差しから匂い立つような清純でありながらも何かぞくりとさせられる色香。
「あの入浴剤は、アメリカ時代に一番気に入ったものをずっと使っている。つい自分の家から持ってきた。祐樹がそう言ってくれるなら持って来た甲斐があった…」
食卓の上には塩鮭を焼いたものに大根おろしがかかった皿と、ほうれん草のおひたしの皿、出し巻き卵の皿が所狭しと並んでいる。教授は味噌汁のお椀を2人分並べたところだった。
「豪華な朝食ですね…旅館の朝食のようです…有り難いのですが…恐縮です」
「久しぶりに作ったから…味は全く保証出来ない…が…」
「いえ、貴方が作って下さったものですから、全部食べますよ。しかし、時間がかかったのでは?」
彼が朝食や浴室の準備のために時間を削ってくれるのは嬉しいが本意ではない。今は元気そうだが、まだまだ彼は病み上がりなのだから。
「そんなに時間は掛かってない。朝起きて、御飯はタイマーで炊き上がるように昨晩のうちにセットしておいたし…浴槽は昨日、私が入った後でついでに磨いていたし。鮭を焼いているのと同時進行でおひたしを作って、出汁巻き卵は五分程度だ」
この人の手際の良さをすっかり忘れていた。そして器用さも。同じ物を作らせたらなまじの主婦よりも手早くしかも綺麗に作れるのだろう。
向かい合って席に座り「頂きます」と頭を下げた。彼は面映そうな笑顔を返してくれる。味噌汁の具は玉ねぎと卵だった。出汁巻き卵と被ってはいるが、貧血気味の彼の身体には卵は必要だろう。口に入れて思わず言った。
「美味しいです。母の味噌汁の味を思い出しました。こんな味噌汁を飲んだのは久しぶりです。お袋の味という感じですね」
確かに教授との逢瀬で使うRホテルのお味噌汁は美味しいとは思うが、外国人の舌も考慮に入れているのか祐樹の好みではなかった。
その言葉を聞いて彼はちらりと祐樹の表情を窺い、お世辞を言っていないことを確かめたのだろう。彼は安心したように微笑った。その笑顔も匂い立つような色香が滲む。
「口に合って良かった。祐樹はずっと1人暮らしなのだろう?実家に帰ったりはしないのか?」
「仕事が忙しいので…それに今、実家に帰っても作ってくれる人間は居ませんし」
彼はマズいことを聞いてしまった…という顔をしたので慌てて補足する。
「父は既に亡くなったという話はしましたっけ?その後、母が働いて学費を賄ってくれたのですが…私が医師免許を取得して研修医として働くようになってから腎炎で入院しているのです。時々は見舞いには行くのですが、入院しているのが遠い病院なもので…」
「そうか…ウチの病院に移送出来ないのか?」
「それも勧めたのですが、息子の病院に入院するのは気が引けると…」
「で、今はどこの病院に入院されていらっしゃるのだ?」
彼は自分の母親が入院しているような沈痛な顔をして目を伏せた。目を伏せると睫毛の影が一層深まる。
「M市市民病院です。あそこは腎臓には強いという話ですから」
「ああ、ウチの大学からも多数医師が勤務しているな」
「ええ、あ、この出汁巻き卵もしっかり関西の味ですね」
「迷ったのだが、関西風にして良かったか?苦手なら作り直すが」
祐樹の表情の変化を一目たりとも見逃すまじといった感じの教授の表情が印象的だった。本当にこの人はあんなにいい加減だった祐樹のことを案じてくれているのだなと思うと、それだけでこの世にある全てのことに感謝をしたくなった。以前の祐樹ではこんなことは思いも寄らなかっただろうが。
「東京風の玉子焼きに砂糖を入れるのは苦手なんです。私はこちらの方が好きですよ」
「実は、私もだ…。アメリカ時代に甘い玉子焼きを食べてびっくりしたことがある。私は祐樹も知っての通り、アメリカに行くまではずっとこっちで生活をしていたものだから、砂糖を入れた玉子焼きが有るとは知らなかった」
爽やかな朝の光の下で彼と他愛のない話をしているのはとても楽しかった。ずっとこのままの時間が過ぎてしまえば…と思う。
綺麗な箸使いで食事を続ける彼の露出した腕に見惚れながら食事をする。
「昨夜、帰りがけに救急救命室を覗いたのだが、祐樹は治療をしていなかったな?」
思い出したように彼は言った。阿部師長の気まぐれな提案に祐樹が従っているところを見られたらしい。
全てを話しても良かったが。
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